「有意義に生きたがる自分」が邪魔です
幼いころから長い期間ストレスにさらされたため体を壊し、バイタリティがほとんどありません。
やりたくないことはもちろんですが、楽しいことも、本当はできません。
あまりにも辛いので自殺は何度か図りましたが、体はやっぱり生き物なので大人しく死のうとしてくれず、完遂できていません。「自殺する」ということを解決法としてすがりつくのは諦めました。
とりあえず寿命までは波風立てずまともに生きているふりをしようと思い、まず生活・収入は絶対途切れさせないように、仕事と生活上必須の作業(食事やお風呂や睡眠)を優先しました。
それだけで限界だと分かったので、体力と収入を削る楽しみ(料理・絵を描く・何か作るなどのクリエイティブ系・読書・SNS)は仕方なくやめました。
人間関係が嫌いになったので頼れるパートナーを作ろうとは思いません。関わると生活がうまくいかないので親族とは縁を切りました。
金銭面は公的機関からすでに援助を受けているので、これ以上誰かを頼りたくありません。
精神科に8年かかっていますが、効果は頭打ちのようです。
今更生きている意味とか、楽しみが欲しいとか、苦労したんだから報われたいとかは全く思いません。無理に求めればそれなりの代償を払うことになります。
まあまあ満足な人生を送るには、今回あまりにも運が悪かったとだけ理解しています。寿命が尽きれば何でもいいです。(死後どうなるとかは置いておいて、この世に参加しなくてよくなる時を待っています)
こんなに理性的に働いてやり、食べたくないと思っても無理に食事を食べさせて生かしてやり、苦しむのが目に見えているから趣味や人間関係の危険から守ってやっているのに、常に自分が不機嫌で、ぐずっているのがはっきり分かります。それが「自分の本当の気持ち」だとしてもいちいち構いたくありません。何がしたいのか分からないし、生活の足を引っ張るだけなら黙ってほしいです。
この不機嫌さを完全に消滅させて、何も感じずに毎日同じことを淡々と繰り返す、「外から見たら普通の人」になるためにはどうしたらいいでしょうか。
「疲れているので休みましょう」といった意見は求めていません。仕事を休んで解決する問題ではないと思っています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
玉ねぎの皮のむき具合
こんにちは、初めまして。
あなたの文章を読んで率直に思うことは、とても緊張した思考を重ねている、ということです。触れなば斬らんの勢いを感じるので、少し躊躇しますが私の思いを試みに書いてみます。
「疲れているので休みましょうといった意見は求めていません。仕事を休んで解決する問題ではない」とのこと。仕事を休みましょうとは言うつもりはありませんが、あまりにも張り詰めた考え方は少し緩和すべきではないでしょうか。
私は、家事の手伝いを時々しており、玉ねぎを剥く時があります。
その時、不慣れな私は、玉ねぎの皮ってどこまで剥くのが宜しいのだろうかと思うのです。料理に手慣れた皆さんには笑いものかもしれませんが、私はいつもいい加減にしております。あまりに剥きすぎないと固い皮が残ったままになりますし、剥きすぎると中身が大して残らなくなります。
「体力と収入を削る楽しみ(料理・絵を描く・何か作るなどのクリエイティブ系・読書・SNS)は仕方なくやめました」、「人間関係が嫌いになったので頼れるパートナーを作ろうとは思いません」とのこと。心身の許容範囲内はあなたが感じるところですので、もちろんあなたの思う通りにされるべきでしょう。
しかし、0か100か、オールオアナッシングかという考え方になっていないでしょうか。0じゃなくても、2とか3とかも考えられませんか。もしかすると、あなたは玉ねぎの芯さえも残っていない状態にしてしまっているからこそ苦しいのではないでしょうか。
「有意義に生きたがる自分」が邪魔です、と表題にあります。あなたがその結論から動きたくないのなら、ここに相談しても答えはないでしょう。そんな風に生きる方法を仏教では教えていないからです。
ただ、もし心を少しでも緩めて、今まで切り捨ててきたものを一つでも大切にし、「有意義」を「有意義」と認めることから始めることに、「常に自分が不機嫌で、ぐずっている」心の解消があると考えるなら、あなたがここに質問された意味が生まれると思います。
取捨選択はご自由に
ある意味素晴らしいと思います
貴方は生きることが煩わしいと思っておられ、楽しみも足を引くと感じておられるのですね。
ある意味、本当の自分を知る良い機会に恵まれているのかもしれませんよ。
本当の自分と言っても、ただ普通の自分ではありません。
貴方が煩わしいと思っている自分を超えたところにある本来の自分の存在です。
それを知るには、楽しみや自分の肉体への執着がとことん透明に消えないと感じることが出来ないものだとも言われています。
その本来の自分を知れば、恐らく貴方の悩みは解決すると思います。
お近くに坐禅会を催すお寺や瞑想会を催すお寺があれば参加されてみてはいかがでしょうか?
自分1人では最初は危険も伴いますから、最初はそういった会に参加されて基礎を学ぶと良いと思います。
もし、少しでも参考になれば幸いです。
合掌