自分の存在している意味
わたしは大学卒業後、正社員として会社に勤務をしていました。最初は辞めるつもりなんてありませんでした。しかし、入社した会社では、パワハラや隣の席で喫煙をされる(今は制度的にありえませんが)など、毎日がつらく、泣いて帰る毎日でした。そのため1年で退社しました。退社までに転職先を決めようと転職活動をしましたが、どこにも決まりせんでした。その後、産休代替としてある場所で勤務。その後も働き先が確定していたのに、勤務先の事情?で勤務できなくなりました。でも、その仕事にやりがいを感じて続けたいと思っていたので、その仕事に就くための勉強をするため、昨年度学校に入学しましたが、試験には不合格。再チャレンジで今年度の試験も受けました。わたしなりに一生懸命、今までの人生こんなに勉強したことはないってくらい頑張りました。あんなに勉強したのに、全然できなくて、もうわたしは何もやってもだめだと思ってしまいました。自分はこんなにやったのに、軽い気持ちで受けてる周りの人の方がうまくいってる現実にほんとに辛くなりました。試験が終わってから1ヶ月ほんとに無気力で、この歳になっても親に何も返せてない自分にも苛立ちます。
今までのわたしの人生親にしてもらったことはたくさんありますし、感謝もしています。こんな自分の存在している意味が本当に分からない。
死にたい ではなく 消えたい とふとしたときに考えてしまいます。(消えたいという感情は小さい頃からたまに考える時がありました)
死ぬ勇気はないです。自分の存在が最初からなかったらよかったのになって。
長文失礼しました。
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人間のいのちを価値を決めれる人間なんているのでしょうか?
会社を辞めた後に入った学校の試験に落ちたことで自分がダメなのではないかと感じ、親に何も返せていないことに苛立っているのですね。存在している意味が分からないと思って悩まれているのですね。
役に立っていないと感じると存在価値がないと思うことがありますね。でも仏教の視点で見るとこうした見方はとても一面的で問題のある見方です。人は役に立つために生まれてきたわけではないでしょう?
試験が出来なかったことでもう私は何をやってもダメだというのは極端な考え方です。私達は0か100で考えがち。落ちてしまったかもしれない、では人間としてもう意味がないのでしょうか?勉強を通して何一つ学んだことはありませんでしたか?少しは合格に近づけたのではありませんか?1回落ちたら自分がダメだというのは謙虚なようで実はそうではない。自分はこんなものではないというある種の傲慢さがあります。今回ダメだったのならそこからまた歩み出すしかない。次に向けて歩み出す。何年か遅れたら人としてダメですか?人と比べて今回できなかった、それで自分の存在価値を切る・嫌うという事は、同じモノサシで出来ない誰かを切ったり見下げて行く事になる。そういう者になりたいですか?そんな事で人間の価値は決まらない。人は勝つために生まれてきたわけではない。負けて一生しょぼくれて生きるために生まれてきたのでもない。勝とうが負けようが生きる事を願われているのでしょう?仏様からも願われているし、多くの人から願われてきたからあなたはここまで生きてこれたのではないですか?両親に恩返しする心がけは大事かもしれない。でも親に何か返すために生きているわけではない。苦しいことや上手くいかないことがあっても、それを含めて、ダメな所も含め自分として生きていける者になる。それで良いのではないですか?
私の先輩の僧侶に目の見えない方がいました。彼は、小学校から目が見えないから徹底的にいじめられました。死のうとしている時に、あるお坊さんと会って、考え直したそうです。目が見える見えないで人間の価値が決まるわけではない。目が見えない病の身のままに自分の人生を生きていこう深くいただいていこうと。そして一昨年60歳で病死するまで生ききりました。最後まで辛いことも沢山あったと思う。けど、彼の生き方を誰が意味ないとか、尊くないと言えるでしょう。どんなあなたでも応援しています。