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お人好しという罪

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有り難し有り難し 18

お人好しは罪なのでしょうか。
またなぜ罪なのか教えていただきたいです。

私は相手がショックを受けないように
答えをあやふやにしたりします。
しかし、結局相手を怒らせたりする結果になります。

私は相手のためではなく自分が嫌われたくないがために
ただ行っただけなのではないかと気づきました。

お人好しは時に人を傷つけるのではないかと思いました。
どうかこんな私にアドバイスをお願い申し上げます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「罪」とまでは言えないと思います

あゆみさま
なごみ庵の浦上哲也です。

質問文を読んでいて、自分のことを指摘されているような気持ちになりました。
私も人に強く言えない性格で、「自分が人に嫌われたくないからなんだろうな」と自己分析しています。

温厚、穏やかと言ってもらえる分にはいいのですが、ハッキリと言えない性格が、いつか逆に人を傷つけることになるのではないかと不安になることもあります。

でも、それが「罪」とまでは言えないのではないでしょうか。
ハッキリ言わなくても思いが伝わることもあるでしょうし、強く言って反感を買うこともあるでしょう。状況によって、相手のとらえ方も千変万化です。常にベストの対応をすることは出来ません。ならば、自分の性格にあった道を進むしかありませんよね。

でも最近こんな私(現在40歳ですが)も、言うべき時には言えるようになってきました。具体的には「これは言ってあげないと、相手のためにならない」と思った時です。相手のためを思っての言葉なので受け止めて頂いてると思いますし、反感を買ったとしても言った内容そのものは有益なものだと信じています。

あゆみさんも無理に自分を変えず、言うべき縁が整った時には相手のためを思ってお伝えしてみてはいかがでしょうか。

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有り難し
おきもち

横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗の教えが好きで、それを人に伝えたいと思い、自宅で法話会を始めてご縁の輪が広がりました。
相談の日程や時間はご相談ください。

きらわれたくない 気持ちを乗り越えて

単に「何て言えばいいんだろう、あっ、こう言えばよかったのか」ということを考えて、相手を傷つけない、怒らせない言い方を心がけるだけで問題解決します。
あなたは人から嫌われたくない、という気持ちが強いのかもしれません。
私もかつてそうでしたが、そうするとどうしても自分色を出せない。いいたいこともいえない。
自分色を出せずに嫌われることも、出して嫌われることもどのみち嫌われるときは嫌われます。
嫌われるという事は相手から拒絶、ダメ出し、受け入れ拒否ということですが、それで人生終わりでもありません。
自分に嘘のない生き方は楽です。
相手にどうしても言わなくちゃいけないようなときがありますね。
そういう時は「〇〇さんのことを大事に思っているから」「あなたの為を思って言うんだけど」「❝私❞はこう思う、を言わせてもらうとすると…」など相手を傷つけないように申し上げます。
相手から嫌われない、相手を傷つけない、ということはとても大事なことですから、あなたの取っている姿勢は間違ってはいません、罪ではありません。
ただ、相手によっては、あいまいにする、うやむやにする、優柔不断な返答は嫌われてしまうことはあると思います。いうべき時、言うべき内容、特に❝言うべき表現の仕方❞は心得ておきましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

浦上 哲也様 回答してくださり誠にありがとうございました。

私は間違いは間違いだと許す心を忘れていました。
嫌われてもいいんだ、と嫌われることをおそれず、
真に相手のことを思えるようにつとめていきたいと思います。
ありがとうございました。

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