存在そのものが厄災の私
初めて投稿させていただきます。
身勝手な物言いですが、私は生きている意味がないと思います。
母によれば、幼少の頃の私は落ち着きが無くて素行が悪かったそうです。
私の中に微かに残る朧げな記憶を探ってみると、自分は発達障害を持っているのではないかと考えてしまうほどです。
とにかく、やることなすことが常軌を逸している。直情的で協調性がない。すぐ物に当たってしまう・・・。加えて、要領が悪く不器用で、他人と比較しても何もかもが劣っている。当然のことながら、私は気ぶり者のように見られ、年齢性別問わず多くの人間から嫌われてきました。不当な扱いに対する激しい憤りを当時は覚えましたが、今となっては仕方のないことだと思う節もあります。
『“私は”人間として不良品なので、不当な扱いを受けるのは当然である。』
これはあくまで”自分自身に”向けたものです。
決して、他人を貶めるためのものではありません。
私は、あまりにもイレギュラーすぎるのです。例外中の例外。人の形を為した厄そのもの。こうして誰かに甘い慰みの言葉をかけてもらおうとすることで、免罪符を得ようとしてる意地汚い存在です。
これまで多くの人々を不当に傷つけ、その心を解せないまま踏みにじった。
両親、兄弟、親戚、同級生、学校や塾の先生・・・・
己の存在が、周りにいる人間まで不幸にする。
私が「人間」として生まれてきたから、両親は不良品の私を「家族」として養わなければならなくなってしまった。
不要な苦痛を多く背負うようになってしまった。
償いのつもりで、いい人間になろうとしました。
しかし、大学受験を失敗し、浪人までさせてもらったのに
何一ついい結果が出せないまま結局親が望まぬ大学に身を置いています。
ある日の晩に「これ程お金をかけてやったのに何一つ成果を出せないなんて」と言われました。
全くその通りです。
背負う業が深すぎて、それでいて償いを果たせずにこうして今日までのうのうと
生きている。私よりよっぽど生きる意味のある人間が悉く死んでいくのに。
私はもう生きて行くのが辛いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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生きる意味など問わなくていいです
ご自分のことを不良品とおっしゃいますが、浪人までして大学受験されるということは能力が高いからではないでしょうか。私立高校に行き推薦で大学に行かれる方も多い中、浪人までして勉強されて受験されたのですから、思う大学に入れないにしても勉強を頑張られたご自分を褒めて上げて下さい。
「発達障害を持っているのではないかと考えてしまうほど、やることなすことが常軌を逸していて、直情的で協調性がない」と、ご自分のことを分析られています。もし、発達障害なら、ご自分でコントロール出来る範疇にないのではないでしょうか。完璧な人はいませんから、それぞれに性格も能力もいびつです。それが障害になるか個性でとどまるかの判断も微妙です。いずれにしても、今の自分を、誰かと代わりたいと思っても代われません。どんなに状況に陥ろうとご自分を丸ごと受け止めるしかありません。
砂の星さんはご自分の評価がどうあれ、砂の星さんは唯一砂の星さんでしか担えない、誰にとって代わることの出来ない尊い存在です。砂の星さんでなければ出来ないことがあるのです。生きる意味など問わなくていいです。砂の星さんは生きているそれだけで尊いのですから、これ以上向上しなくても、頑張らなくても、あるがままで十分です。生きる意味など必要ありません。
これだけご自分を見据えられることは、なかなか出来ることではありません。砂の星さんのように深い罪の自覚が、これから先、罪を償うために、ひたすら努力せずにはいられない、真摯に一歩一歩進んでいける人になれるのではないでしょうか。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
返事が遅れて申し訳ありません。
おかげさまで、幾分心持ちが穏やかになったのを感じます。