出家したら煩悩や俗世から離れられますか。
煩悩がたくさんある自分が嫌になることがたまにあります。
お坊さんからの回答 1件
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"出家したら煩悩や俗世から離れられますか" いい疑問ですね。 人生を賭して、試してみる価値はありますよ。
なかなか後戻りはできなくなりますが。
hasunoha.tenrakuin@gmail.com
ご回答いただきありがとうございます。 後戻りができないので躊躇う気持ちはあるのですが、それこそが覚悟が足りないとかそういうことなのかなーと思う今日この頃です。 自分の煩悩とも向き合いつつ、ゆっくり考えていきたいと思います。
休めないことに罪悪感があります。頑張っていない状態が許せず、かといって成果が出るわけでもなく、ただ無理して我慢して疲れ切っているのが現状です。 私は周りの評価に依存して生きているので、いい子ちゃんを演じて背伸びをしています。自分の意見や意志に基づいて動けないのです。なのでいつも勝手にキャパオーバーになって、泣いています。出てくる言葉は「疲れた」「つらい」「休みたい」ばかりです。 どこかのサイトで、休めないこともまた煩悩なのだと知りました。 自分は出来るという奢り、もっと評価されたいという欲、頑張っている自分を褒めて欲しい慰めて欲しいという甘え。そういう考えがあって休めていないのかなと思います。 頑張っていない、怠けている、出来ない奴だと思われるのが怖いです。でも、本当は全然頑張りたくありません。私ができる範囲のことをやればいいのに、他人に評価されることに躍起になって、自分の心を疎かにしているのが苦しいです。 完璧にできない自分を受け入れて、自分に期待しすぎないで生きるには、どうしたらいいのでしょうか。
煩悩浄化の為の仏法の信仰というのは、 結論的には、良い心を持ちましょう。 ということなのでしょうか? だとすれば、はじめから博愛主義的に生き、そもそも煩悩封じ込めすればいいのでしょうか? 博愛主義で、十分に救われますでしょうか? でも、これって二重人格になりそうな気もしますが。
煩悩を消そうとしたり 見ないふりをしようとしたりしてきました 良くない言葉や 良くない出来事 黒いものを見た時に 自分の中にある悪の感情に 蓋をしようとしたり 見て平気になろうとしたり でも見ていい 見て認め 聞いて見て感じて 考えて感情にのまれない 心配は仕事のようにやってくるけど 見守り乗り越えてゆく 全てあって良くて ありのままを 愛する事 今にしか気付きは来ないこと 全ては宇宙の采配 安心していなさい 煩悩とはこれを知るためのものでしょうか?
他の欲は全て捨てても良いから 愛する人と一緒に生きたい でもどんなに謎を解いても 答えに辿りついても もう決まった事だと言われます 他の欲がないからと言って そこに執着するのもいけないのでしょうか 本当の愛は自由である事を 認め許すことでしょうか? 生きる希望はどこに見出してゆけば良いでしょうか 自分の幸せは人に委ねません 一緒に生きてゆくことすらも 否定されたら 答えに辿り着いた時いつまでも求めるのは 自分の幸せや欲、煩悩になるのでしょうか
どうしても女遊び(風俗に行くことです)の事ばかり考えてしまいます…また音楽が好きで好きで好きで仕方ないため普通に売っているCDやDVDだけでなく海賊版(アーティストが許可を出していない音源、映像)も欲しくて欲しくて欲しくて仕方なくなります。どうすればこの様な煩悩から離れられますでしょうか…⁉️ 友達がほとんどいなく女性とお付き合いもした事がないためか風俗や違法な商品に心を奪われてしまっている様です…どうかこんな愚かな私にアドバイス宜しくお願い申し上げます。
煩悩が激しいです。 今の心は以前とは全く別の本来の道に立った実感はあります。 ただ、日常やる事が多すぎ何から何までどれもつまみ食い状態です。 例えば、 歎異抄や方丈記、古典。最近だと池田晶子さんみたいな哲学を聞いたり読んだりして感動して考え分かった「気で居る」一方、NFTや株の状況やPS5も気になる(気になるごく一部のみ抜粋)。 また、家族を愛しているので家や子供たちの事、妻の事、役所関係も自分以外出来ません。 主治医からはヴィパッサナー瞑想を勧められていて、自分に必要なのはそれだ、と強く認識しています。身の回りが片付いてから日常を完全に遮断し10日間行こうと計画してます。(春先に笑) 限られた一日をもっと的を絞って生きるコツを頂きたく質問させて頂きました。宜しくお願い致します。 ※般若心経を唱えるにも家族暮らしの中では抵抗感があります。
恋愛、結婚、子作りは全て煩悩ですか?
煩悩と欲求、自我についてお伺いいたします。 生理欲求や安全欲求については理解できるのですが、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求など、これらの欲求と欲望の区別がつきません。 例えば学びたい欲求、修行したい欲求も欲望(煩悩)と考えるべき対象となるものでしょうか。 欲求や欲望(煩悩)の判断についてご教授下さい。 また、座禅などを行うときに「自我をなくすように努めましょう」と伺うことがあります。 そもそも「座禅をしたい」自我がないと座禅ができないので、座禅はしてならないことになるのでしょうか。 欲求、欲望、煩悩、自我、この言葉の意味や判断、体現について、どう考えるべきでしょうか。 併せてご教授いただけますと幸甚です。 よろしくお願い申し上げます。
明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。 * 「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。 ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。? 少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。
これは痛切に思って寝付けない(恥ずかしい…)くらいのことなのですが、たとえばある程度仏道修行を進めて、ある程度自覚なさった人でも菩薩行で一切衆生の心を実際に完全に救いきることは無理ですよね? というのも、毎日毎日この社会で苦しんでいる人達を見て知り、彼ら彼女らに思いを馳せていて、思い通りにいかずもう苦しくてたまらないのです。 実際にこちらがある程度力になれることでしても微々たるものでしかなく、何かもっと一気にドカーンと救えるアイディアはないのかと欲の煩悩に支配されてしまう毎日です。 要は菩薩道において煩悩を燃やす程度がわからなくて苦しいのです。 苦しいことはただ苦しいものとして受け入れようとしても、実際に苦しい状態だとどうにも苦しみに飲まれてしまいます。 どうかアドバイスをお願いします。 また、この状況に対して参考になりそうな経典はありましたら教えていただけると幸いです。 P.S. これを書いた後で気づいたのですが、結局は「今、この瞬間」で出来得ることをやっていくしか(成果の大小・多少の差やムラは仕方なしとして)道はない、ということなのでしょうか?
躁と鬱と私と共に生きる西條るじん僧侶
和歌山の駆け込み寺・中田三恵住職
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