煩悩、欲望について回答受付中
仏教は宗派問わず、溢れ出る欲望を絶ち、苦しみから解放されるために修行していると思いますが、その修行自体が苦しみという点が矛盾している気がしています。ここに対しての考えはどのようになっているのでしょうか?また宗派によって考え方は違いますか?
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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目を覚ます。
欲望と煩悩は分けて考えるとわかりやすいかもしれませんね。
欲望というのはオアシスに湧き出る泉のようなもの。
これがなくてはオアシスとしての生命体が維持できませんし、生きていくうえでも(修行するうえでも)欠かせないと分かります。
ところが我々はいつしか
この泉がやがて枯れてしまうのではないか。ほかの人に取られてしまうのではないか。
と悩み煩うようになります。
これが煩悩です。
悩んでいるうち、やがて
この泉を自分だけのものにしたい、
と考えます。
これが我です。
これに飽き足らず、今度は
ほかの人の泉より自分の泉を大きくしたい、と考えるようになります。
これが貪り、貪(とん)です。
この全体のプロセスを
執着と呼び、
仏教が究極的に言っているのは
このプロセスをやめろ。
我は現実ではないと知れ。
あれこれ思い煩うな。
ここにあるのは湧き出る泉だけだ。
目を覚ませ『覚者(ブッダ)』。
ということではないかと思います。
どうやったら目が覚めるんだろうねって
考えて修行というものが伝えられているのでしょう。
思いつきでオアシスのたとえを
言ってみましたので
それぞれの語彙の例えは
教義的に正確ではないかもしれませんが
こんな感じでイメージしていただけると
とりあえず各宗派理解しやすいと思います。
ただ、まあ今やってるこの修行で、果たして目が覚めるんかいな
むしろ執着になってるんじゃあありませんかみたいな疑問はその都度必要かもしれませんね。
ご参考いただければ幸いです。
南無釈迦牟尼仏 合掌
修行は苦しみではない
ろうそく様
拝読致しました
修行自体が苦しみ
と考えているのですね
修行のない宗派もあり 宗派や個人で修行の捉え方は違うと思うので
個人の考えを伝えさせて頂きますね
修行とは厳しいのかもしれません
でも 苦しいとか辛いと思ったことはございません
一種の緊張感に包まれて張り詰めた生活の中
ひたすらに佛様のことだけを考え
過ごすことのできる
とても貴重な時間でした
慣れるまでは、正座が苦しい
落ち着いて座っていられない
などは あるかと思いますが
礼儀として当たり前のこと
滝に入るのも身を清めたいから行うのであり
寒いとか冷たいという気持ちは起こりません
実際の修行に対する想いと
周囲に対して謙遜してお話しすることは
違いが生じるもの
僧侶も
修行に対する感想を正直に周囲に伝えなくてはなりませんね
良い質問をありがとうございました
虫歯治療も苦痛だが治れば痛くない
生きている限り苦しみは必ずあります。
ですから、修行にも苦しみはあります。
悟りを開いたお釈迦様でも肉体的な苦痛はありました。
ただし、仏教の修行は基本的に中道(快楽主義ではないが苦行を目的ともしていない)なのです。
また、仏教では欲や怒り、執着や愚かさなどの煩悩が人生の悩み苦しみやストレスを増やす原因になると考え、苦・無常・無我などの真理を覚ることで煩悩が弱まったり消えたりすると考えられます。
喩えるなら、虫歯の治療には苦痛を伴いますが、治療が終われば治療前の虫歯の痛みから卒業できるようなものです。
仏教では、修行の結果悟って煩悩がなくなれば、苦しみを繰り返す輪廻転生から卒業できる(涅槃に入れる)と考えられます。


