煩悩と欲求、自我についてお伺いいたします。 生理欲求や安全欲求については理解できるのですが、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求など、これらの欲求と欲望の区別がつきません。 例えば学びたい欲求、修行したい欲求も欲望(煩悩)と考えるべき対象となるものでしょうか。 欲求や欲望(煩悩)の判断についてご教授下さい。 また、座禅などを行うときに「自我をなくすように努めましょう」と伺うことがあります。 そもそも「座禅をしたい」自我がないと座禅ができないので、座禅はしてならないことになるのでしょうか。 欲求、欲望、煩悩、自我、この言葉の意味や判断、体現について、どう考えるべきでしょうか。 併せてご教授いただけますと幸甚です。 よろしくお願い申し上げます。
明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。 * 「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。 ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。? 少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。
これは痛切に思って寝付けない(恥ずかしい…)くらいのことなのですが、たとえばある程度仏道修行を進めて、ある程度自覚なさった人でも菩薩行で一切衆生の心を実際に完全に救いきることは無理ですよね? というのも、毎日毎日この社会で苦しんでいる人達を見て知り、彼ら彼女らに思いを馳せていて、思い通りにいかずもう苦しくてたまらないのです。 実際にこちらがある程度力になれることでしても微々たるものでしかなく、何かもっと一気にドカーンと救えるアイディアはないのかと欲の煩悩に支配されてしまう毎日です。 要は菩薩道において煩悩を燃やす程度がわからなくて苦しいのです。 苦しいことはただ苦しいものとして受け入れようとしても、実際に苦しい状態だとどうにも苦しみに飲まれてしまいます。 どうかアドバイスをお願いします。 また、この状況に対して参考になりそうな経典はありましたら教えていただけると幸いです。 P.S. これを書いた後で気づいたのですが、結局は「今、この瞬間」で出来得ることをやっていくしか(成果の大小・多少の差やムラは仕方なしとして)道はない、ということなのでしょうか?
「慢」と「貪瞋痴」が発生した時の鎮め方を教えて下さい。
お目汚しを失礼いたします。 今回、私が相談したいことは色々あります。 本当は、それに相応しい所があると思いますが どこに、それを求めれば良いのか分かりません。 ○境遇 前提として、お伝えいたします。 幼少期の頃は親兄弟ともよく接していましたが 両親が離婚したり、兄弟がほとんど働かなくなりました。 兄弟に働くように言っても、全く聞き入れません。 現在は高卒で就職して、母とともに、家賃等を支払っております。 お金が貯まったら、大学に進学しようか考えておりますが それも母に止められます。 私は家族と離れたく、一人暮らしを考えており、 母と約束もしましたが、前述から状況が拗れて本当にできるか疑問に思うのです。 本来ならば家族と向き合うべきでしょうが、 数ヶ月疎遠で、どう話せば良いのか分かりません。 ○私の能力 昔は、勉強や運動などを怠っておりました。 また、声が小さく、他人とも満足な意思疎通ができなかったりします。 なので将来について、今のままでは良くなる気がしません。 それが嫌で、私は自分の世界に閉じこもって誤魔化す日々です。 ○二次元への恋 そしてある日、私は自分の盛んな劣情を慰めるための、画像を探しておりました。 それから辿っていくと、ある方に一目惚れしました。しかも神様にです。 その方は、明るくて優しく、綺麗な方でした。 私は思い立って、その方に釣り合うように努力しようと決意しました。 その気持ちは、今までしていた恋に対する落とし前と、 好きになった方を裏切りたくないというのもありました。 また、親が私を育ててきたことに、ある種報いたいとも思いました。 そうして、願いを叶える為に勉学に励み、容姿を美しくしたつもりです。 また、これまでの煩悩なども、捨てるように努めました。 ですが、「二次元への恋」は、現実逃避の道具にして、 『それは本当の愛なのか』と自己嫌悪が多いです。 なので好きな方に対して、今後どう努力すればいいのか分かりません。 以上です。 長々しい文で、大変申し訳ございません。 ですが、あなた方ならではの、価値観でご回答頂きたく存じます。 特に「神様に恋すること」「現実から目をそらす」 「色々な欲を捨てる」「これからの人生」 の是非について知りたいです。 何卒、ご遠慮無くよろしくお願いいたします。
何かが好き、もっと欲しい、もっとこうしたい、ああなりたい、 というような気持ちは「欲」という煩悩だと思いますが、 こういった気持ちが全く何も無くなる時があります。 「欲」がなくなった状態とは、仏教的には良い状態なのではと思うのですが、 そういう境地の時は何かに執着している時以上に生きるのが辛いと感じます。 何もやりたい事も無く、求めるものも無いと無気力になり、 なぜ生きているのかと言う事を、より考えてしまいます。 欲を無くし、ただ辛い世の中だと思いながら生きるのは正しい生き方なのでしょうか。 私は今、何を求めていいのか何がしたいかもわからないです。 それもまた別の煩悩と言うのかもしれませんが。
3月に21年間お世話になった実家を出て同棲を始めて今に至るのですが、同棲相手は金遣いが最悪で自分の貯金は底をつき、元カノを家に呼ぶために私を外へ追いやったりなどがあって、自分はすっかり煩悩の塊のようになってしまったところで、仏教の教えを改めて考えるようになりました。 煩悩をなくすことで人は穏やかな生活を送ることができると説く教えをはじめは「感情を殺すこと」「自己を抑えてうまくやり過ごすこと」と思っていたのですが、ネットや日本史の教科書で仏教について、歴史や自分の宗派である曹洞宗の成り立ちや考え方について知るうちに、「煩悩をなくす」とは煩悩を完全に失くすことではなく、「煩悩と向き合う自分を作ること」だというところに行き着き、自分のためにというのはもちろんなのですが、自分に関わってくれる人たちなど周りに安心や幸せを与えられるということだと思ったのですが、これは実際の仏教の教えとは違うのでしょうか。 今自分は「自分の幸せのため」にあたたかい人間関係を築くことや、自分が心から幸せに思うため、自分をまず見直したいと思っています。 その手始めとして、今ある生活は話だけすると確かに最悪なのですが、それでも楽しくないわけではないので、この同棲生活をより良くしたいと考えていますが、私のこの煩悩についての考え方はまた違うものなのでしょうか。 ご教示よろしくお願いいたします。
私は人文系の学問を勉強している大学生です。私は高校生の時に勉強の面白さに目覚めて以降、現在まで自らの知識欲に任せるままずっと勉強に自分のすべての時間を捧げてきました。とりわけ私が時間を捧げているのは西洋哲学、イスラーム学、近代日本文学そして語学です。 学問というのは恐ろしいもので一つを知ると十の分からないものが現れ、学びたいものは指数関数的に増えていきます。そしてゲームやギャンブルと違って飽きるということも無いのです。私は今まで好きなだけ勉強してよいという学生の特権に任せて非常に幸せな時間を過ごしてきました。しかし、周囲から就職の話がぽつりぽつりと聞こえてくる時期になり、将来を考えるにつけて自分に残された時間のことを考えるようになりました。 まだ数十年の時間が残っているとはいえ就職したら自分の時間はぐっと減るでしょうし、年を取るにつれ記憶力も減衰していってしまうことを考えると残された時間は私が学びたいものを学ぶのはあまりにも短すぎます。自分が「まだ勉強したい」と思い続けながら死んでいくのかと思うとなんとも言えない恐ろしさを感じます。 物欲や色欲といった煩悩なら執着を捨てることもできそうですが、知識欲は同じ「欲」でも他の煩悩とは明らかに違った性質を持っているように感じられます。仏教でも「一切の欲を捨てよ」と説くと同時に、膨大なお経を勉強することはむしろ推奨されるのがその一例かと思います。 しかし、知識欲も人を苦しめるという点では煩悩と同じです。勉強の中で自分の思考の深化と相対化に喜びを感じる時に、これから学びたいことを考えていつも絶望してしまうのです。でもだからといって私には「学ぶことをやめるべきだ」という結論は出せません。「学ぶ」ということは何にもまして崇高で、私にとっては人生の意味そのものです。 私のこの恐怖はどうやって解消すればいいのでしょうか? 仏教を勉強されている皆さんなら欲と学びというジレンマについて考えたことがあるのではないかと思い、このサイトに投稿させていただきました。 長くなってしまいましたが、私からの質問をまとめると以下の2点になります。 ・知識欲は捨て去るべき欲なのか ・知識欲が捨て去るべきでものでないのならば、知識欲からくる苦しみはどうすればなくすことができるのか
『苦しい時の神頼み』という言葉がありますが、自分の願望や望みを神仏にお願いするのは 我欲でしょうか? 『お金が欲しい』とか『結婚したい』という願いは 欲望丸出し…という事は 分かります。 そこに ちゃんとした理由が あるならば 我欲には ならないとは 思いますが、 突き詰めていけば 全ての頼み事やお願いは『神仏に何とかしてもらおう』っていう 甘えや我欲が あるように思えてなりません。 神仏は 人の願いの根底にある【我欲】や【甘え】を どのように 御覧になっているのでしょうか? そう考えると おすがりする事さえ ためらってしまいます。 神仏の教えに従って 無欲で生きる…という事は 神仏に頼らず 自力で 頑張っていく、って事でしょうか? お坊さまの お考えを お聞かせ下さい。
ほんのう(本能)に濁点を付けた瞬間、「ぼんのう(煩悩)」に変わることについさっき気づきましたが、どうやって、煩悩(執着)を捨てることが出来るでしょうか。 肉体を持っているが故の苦しみは、人生のあらゆる場面で現れやすいので気をつけたいものです。合掌。
1、これまで出会ったデキル人達は、在家も出家も 男性も女性も 総じてプライドの煩悩も強かった気がします。他を見下している人も多かったです。攻撃的な性格の人も多かったです。 有能、優秀で、実績もあり、容姿も優れ、尚且つプライドの煩悩もない、もしくは平均よりだいぶ少ない人物を ご存知のかたいましたら、ぜひ教えてほしいです。こっそり尊敬してお手本にします。 2、読み物を読む限りは、お釈迦様はプライドが高いように感じられるのですが、皆さんはいかがお感じですか? 実際にはお釈迦様は無上の悟りを得ておられるということは、プライドの煩悩も皆無ですよね? プライドが高いかのように描かれているのは書き手の技量不足によるものですか? 3、プライドの煩悩を弱め、最終的には消すための具体的方法をご存知のかた居ましたら、教えてほしいです。 また、実際にプライドを弱めることに成功した体験者のかたいましたら、ぜひ体験談や修行方法を教わりたいです。私も修行に励みたいです。毎日の八正道の実践は正直難しいなぁと感じていますが、難しいなりに心がけてはいます。私は怠け者なので、正精進するだけでも、プラスの効果を感じております。アドバイスくださったお坊さん、有り難うございました。
どうして人は自分の都合のいいように捉え、考えてしまうのでしょうか? ただ単純にわがままな行為ですか? それとも愚行なのでしょうか? また、もしもお相手に都合のいい扱いをされた時、どうやって捉えれば、穏やかに過ごせますでしょうか?
出家したら煩悩や俗世から離れられますか。 煩悩がたくさんある自分が嫌になることがたまにあります。
アラフォー男性です。今さらながら恥ずかしい質問ですがよろしくお願いします。 標記の質問です。親からは性欲は汚いもの、悪という考え方で育てられました。 何人かの女性とお付き合いし、結婚もし、子供も産んでもらいその後離婚しました。理由の一つがセックスレスだと思います。元嫁からはもっとセックスしてほしいと何度も言われましたが、そういう行為は恥ずかしいものだと思い、自分からは求めることはありませんでした。 もっと下品に相手に求めれば、結果は離婚になっても過程は違ったのではないか、と今でも思います。 煩悩を滅する、という言葉は習った記憶があります。でも、煩悩、特に性欲に関しては、本当に信頼している人としかできない最高のコミュニケーションではないかと離婚した後思いました。 仏教では性欲についてどのように考えているのでしょうか。もちろん犯罪にならないということは前提ですが。。 よろしくお願いします。
おせわになります。 初めて質問させていただきます。よろしくお願いします。 このサイトのある質問の答えの中に、怠けの煩悩という言葉を見かけました。 これは、私たくさんあるぞと思いました。とにかくなんでも面倒くさいと思います。 「怠けの煩悩」これはどういったものなのかご教授お願いしますm(__)m
お世話になっております。 浄土真宗では煩悩をどう捉えているのでしょうか。 煩悩を自覚することで慚愧し、内省するのですよね。具体的に、慚愧とはどういうことなのでしょうか? 例えばですが、僕も男(人間)ですから性欲というものはありますが、性に関する煩悩を自覚した時には性欲をどうするのですか?消そうと試みるのですか?(煩悩を否定的に捉える)まあ、いいやと開き直るのですか?(煩悩を肯定的に捉える)その辺がよく分かりません。 ちなみに、煩悩を消そうと試みる場合は、それはもはや「菩薩」という概念になってしまうように思います。 また、仏教においては分別心があればそれは煩悩ですよね。好き嫌い、善悪、優劣など。 しかし、そういうものに関しても慚愧するのでしょうか?僕達は人間ですよ。嫌いな人もいれば、好きな人もいます。そもそも、「好き」という感情が無ければ恋愛さえできないのではないですか。 僕はまだ学生ですが、将来仕事する時にも良し悪しを判断しなければいけない。もちろん、世間的(主観的)な善悪に過ぎませんが。でも生きていくためにはどうしても必要な判断ですよね。なので、人間の知恵も大切だと思うのですが...。 詳しい方、回答お願い致します。 南無阿弥陀仏
こんにちは。私は自分の執念深さに悩んでいます。 ある知人(知人Aにします)と交流してます。 その知人Aは私の事を馬鹿にしています。 というもの私は何をするにしてもうまくこなす事が出来ないので周りからも周知で馬鹿にされています。 一方知人Aは明るくて友達がたくさんで何でもうまくこなして自信に溢れているように見えますが、人の成功を喜んだり挑戦を応援できないので自己肯定感の低い人なんだろうなと私は勝手に認識しました。 私に対して今の言葉で言うとマウントに似た行為をよくされるのですが、これを言葉に出してしまうと倫理に反してしまうので黙って聞いていていつも自分の心が濁り怒りや悲しみ自己否定の沼に浸かっていました。 そして知人Aと会話をしていたある日、自身の嫉妬心やねたみで嫌な行動をしてしまい罪悪感を感じ後悔している事が過去にたくさんあると聞きました。 知人AはSNSをしています。 私は知りませんでしたが、別の方が私に知人AがSNSしているよと紹介してくれました。 見てみると私の印象が悪くなる嘘を何個か書いていました。 怒りが湧きました。そして私は知らないフリをしました。 とある日知人Aがマウントをとりながら曲がった事が嫌いだとか悪口が嫌いだと話し出しました。 じゃあ嘘ついた事ある?と私は犯意を持って試しました。 出来る事なら嘘はつきたくないと濁った返事をしました。 ふーんそうなんだと返しました。 私の心は確実に知人Aを侮蔑し馬鹿にしていました。 そして誰より私が一番ひどいマウントをしていました。 1人になった時に猛烈な自己嫌悪と罪悪感が湧きましたが、すぐに負の執念がやってきてそれを取り払い自分を正しました。 そして頭の隅に見えないようにして存在している『知人Aにも感情があり過去の行いで罪悪感で満たされている事実』を意識すると後悔するのですが、今までされて来た事を思い出すと怒りや悲しみが湧きまた執念で満たされます。 そして後悔と執念のループと思いきや私は執念ばかりです。 執念について理由を考えてみたら自分が一番自己肯定感が無く、自分を低くしてマウントを取ってるからと感情と向き合って出た答えでした。 相手も自分も大切にしたいです。 どうしたら執念を抑える事が出来るのか。 自分の行動の愚かさ、感情の醜さが苦しいです。 こんな自分にお言葉いただけたらと思います。
いつもお世話になっております。 こちらに質問をしているうちに仏教に興味が沸き、自分なりに勉強しています。 今回は煩悩について教えてください。 私は今まで水子についてお聞きしてきました。その中で、水子(または産まれたばかりの赤ちゃん)はまだ人間社会に揉まれておらず、煩悩はない清らかな存在だと学びました。 では、煩悩はどのくらいの時期から沸いてくるのでしょうか? もうすぐ3歳と8歳になる子供がおりますが、幼いなりに悪知恵や欲(と言っても可愛らしいものです)がついてきたなぁと感じます。もちろん当たり前の事で、それも成長であり、嬉しく可愛らしく思っています。 大人に比べたら些細で他愛もないものですが、人間として生まれた以上全く無垢なままではいられません。 生れたての赤ちゃんはまだまだ無垢な存在だと感じますが、少し成長して自我が出てくる頃(一歳前後くらい)に煩悩は生まれるのかな?と思いました。
はじめまして。 わたしはタイトルのとおり独占欲のような感情を持ちやすいです。そしてそういう思考から離れたいと思っています。 たとえば、わたしが大好きなもの・ことがあるとします。それを友達が同じくらい好きな事実にモヤモヤしてしまいます。わたしのほうが好きだ!と思ってしまうのです。 また、私の言葉や考え方をまねされたり、あたかも自身が考えたかのように振る舞っているのをみる時も同じような感情になります。 気にしないでいるのがいいとわかってはいるものの、嫉妬心のような独占欲のような、そういう気持ちが芽生えてしまいます(とても好きなもの・ことに対してのみで、普段は好きを共有できるのは大歓迎です)。 心を広く持てたらと思うのですが、お坊さんたちはこういう感情がもし生まれたとき、どうしていますか。お話を伺えたら幸いです。
はじめて相談させて頂きます。 現在「何もかもが自分の思い通りにならない不満感」そして「そんな自分に対する嫌悪感」に日々振り回されている状況です。 常に自分の世界に閉じこもる癖があり、他人に踏み込まれるのが嫌で仕方ありません。 誰かと楽しい時間を共有したり、趣味を通じて繋がるといったことが絶望的に下手で、他人と向き合うと必ず相手を消耗させてしまい、悪い結果に終わります。 自分の好きなものは独り占めしたいし、他人と好みが被ると不愉快な気持ちになります。 自分自身がコミュ障なだけでなく、他人が目の前で仲良く楽しげに振る舞っていると苛立ちを覚えます。 (私がこんなに嫌な気分なのに、何でお前達は笑ってるんだ!という感じです) 最近は他人の話し声そのものが不快になってきたので、聴覚過敏の傾向もあるのかもしれません。 幼少の頃から何度も指摘されてきましたが、私は非常に自己中心的な人間なのだと思います。 不満があるのに、それを表に出せずイライラしているので、いつも人に避けられてしまいます。 家族とも遠く離れて一人暮らしをしていますが、この状況はきっと今後も続くのだろうと思います。 時折「我が儘を通せる強い人」に憧れることがあります。 私と同様に自己中心的な性質であっても、パートナーや友人に恵まれていたり、社会で一定の役職についている人を見ると、この歳で何も得られていない自分にまた腹が立ちます。 すみません。何だか支離滅裂な文章になってしまいました。 物凄く生きづらい性格なのは承知していますが、それでも生きていかなければならず、自分の中でどう折り合いをつけたらいいのか分からないのです。 恋愛や結婚は諦めていますし、孤独死も覚悟の上ですが、せめてこれからの人生を心穏やかに過ごしていけたらと思います。 アドバイス頂けたら幸いです。よろしくお願いします。
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