貪・瞋・癡という言葉を知りました、それぞれ難しいのですが特にこの癡が分かりません、他と自を分けないとの言葉の意味は理解しますが、実際の自分には理解出来ないのです、体感が大事とのことですが、どうしてもその状態が浮かんで来ません。 確かに自と他を分けないということは人に優しく出来ますし、人の為になることを躊躇いなく出来ると思います、今まで自分のことしか考えなくて、人に優しくするのは人に好かれたいからだとこの年にして気が付きました、こんな生き方は人として情けないですし、人に対しての思いやりなどはまったくの嘘ということになります、これは人として生きていることにならないという気がします。 そんな自分にこの癡がなにか少しでも分かれば、生き方も人への接し方も少しは変わるのかなと思っています。 このような質問で申し訳ありませんが、お答えをいただければ大変有り難いです、よろしくお願いいたします。
一つの悩みが解決したら次の悩みが生まれます。一つの幸福を覚えたら次の幸福を求めます。どっちの方向性も永遠と続きます。過去も未来も同じであって全体のスパイラルが見渡せる所へ大衆を導ければ一気に全員が楽になります。しかし必然的に個々でその気付きに達しないと無理とも思ってます。いっそ自分の想念を強めて、見えてる現実世界を追従確定させる事ができれば、大勢の人が精神的に楽になるのかなと思ってます。「他人」の向こうに「自分」がいる事実だけでも、他人の精神に植え付ける事は悔い改めるべき考え方なんでしょうか? この文章含め、全ての意味や価値、疑念は個々の中に存在しそれが全てです。お坊さん風に言うなれば、 「無」とは頭の中でさえ唱えず、魂なる精神が先行したその瞬間です。 「煩悩」は無くすのでなく、その先にある自身の姿を捉え全ては手中にあると知れ わたしの幸福は他人の向こうにあります。逆も然りです。心構えの相談です。 宜しくお願い致します。
つい若い女性を気にかけてしまう自分が情けなく感じてしまいます。 職場や散歩中でも若い女性がいるとついつい気になってしまいます。 別に深い関係になりたいとかそういう願望は無いつもりですが、やはり意識しないようにするのが難しいと感じます。 時々目線も行ってしまい、相手が気がついたりすると恥ずかしいです。 このような煩悩にはどう対処したら良いのでしょか。
休めないことに罪悪感があります。頑張っていない状態が許せず、かといって成果が出るわけでもなく、ただ無理して我慢して疲れ切っているのが現状です。 私は周りの評価に依存して生きているので、いい子ちゃんを演じて背伸びをしています。自分の意見や意志に基づいて動けないのです。なのでいつも勝手にキャパオーバーになって、泣いています。出てくる言葉は「疲れた」「つらい」「休みたい」ばかりです。 どこかのサイトで、休めないこともまた煩悩なのだと知りました。 自分は出来るという奢り、もっと評価されたいという欲、頑張っている自分を褒めて欲しい慰めて欲しいという甘え。そういう考えがあって休めていないのかなと思います。 頑張っていない、怠けている、出来ない奴だと思われるのが怖いです。でも、本当は全然頑張りたくありません。私ができる範囲のことをやればいいのに、他人に評価されることに躍起になって、自分の心を疎かにしているのが苦しいです。 完璧にできない自分を受け入れて、自分に期待しすぎないで生きるには、どうしたらいいのでしょうか。
煩悩浄化の為の仏法の信仰というのは、 結論的には、良い心を持ちましょう。 ということなのでしょうか? だとすれば、はじめから博愛主義的に生き、そもそも煩悩封じ込めすればいいのでしょうか? 博愛主義で、十分に救われますでしょうか? でも、これって二重人格になりそうな気もしますが。
煩悩を消そうとしたり 見ないふりをしようとしたりしてきました 良くない言葉や 良くない出来事 黒いものを見た時に 自分の中にある悪の感情に 蓋をしようとしたり 見て平気になろうとしたり でも見ていい 見て認め 聞いて見て感じて 考えて感情にのまれない 心配は仕事のようにやってくるけど 見守り乗り越えてゆく 全てあって良くて ありのままを 愛する事 今にしか気付きは来ないこと 全ては宇宙の采配 安心していなさい 煩悩とはこれを知るためのものでしょうか?
他の欲は全て捨てても良いから 愛する人と一緒に生きたい でもどんなに謎を解いても 答えに辿りついても もう決まった事だと言われます 他の欲がないからと言って そこに執着するのもいけないのでしょうか 本当の愛は自由である事を 認め許すことでしょうか? 生きる希望はどこに見出してゆけば良いでしょうか 自分の幸せは人に委ねません 一緒に生きてゆくことすらも 否定されたら 答えに辿り着いた時いつまでも求めるのは 自分の幸せや欲、煩悩になるのでしょうか
どうしても女遊び(風俗に行くことです)の事ばかり考えてしまいます…また音楽が好きで好きで好きで仕方ないため普通に売っているCDやDVDだけでなく海賊版(アーティストが許可を出していない音源、映像)も欲しくて欲しくて欲しくて仕方なくなります。どうすればこの様な煩悩から離れられますでしょうか…⁉️ 友達がほとんどいなく女性とお付き合いもした事がないためか風俗や違法な商品に心を奪われてしまっている様です…どうかこんな愚かな私にアドバイス宜しくお願い申し上げます。
煩悩が激しいです。 今の心は以前とは全く別の本来の道に立った実感はあります。 ただ、日常やる事が多すぎ何から何までどれもつまみ食い状態です。 例えば、 歎異抄や方丈記、古典。最近だと池田晶子さんみたいな哲学を聞いたり読んだりして感動して考え分かった「気で居る」一方、NFTや株の状況やPS5も気になる(気になるごく一部のみ抜粋)。 また、家族を愛しているので家や子供たちの事、妻の事、役所関係も自分以外出来ません。 主治医からはヴィパッサナー瞑想を勧められていて、自分に必要なのはそれだ、と強く認識しています。身の回りが片付いてから日常を完全に遮断し10日間行こうと計画してます。(春先に笑) 限られた一日をもっと的を絞って生きるコツを頂きたく質問させて頂きました。宜しくお願い致します。 ※般若心経を唱えるにも家族暮らしの中では抵抗感があります。
煩悩と欲求、自我についてお伺いいたします。 生理欲求や安全欲求については理解できるのですが、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求など、これらの欲求と欲望の区別がつきません。 例えば学びたい欲求、修行したい欲求も欲望(煩悩)と考えるべき対象となるものでしょうか。 欲求や欲望(煩悩)の判断についてご教授下さい。 また、座禅などを行うときに「自我をなくすように努めましょう」と伺うことがあります。 そもそも「座禅をしたい」自我がないと座禅ができないので、座禅はしてならないことになるのでしょうか。 欲求、欲望、煩悩、自我、この言葉の意味や判断、体現について、どう考えるべきでしょうか。 併せてご教授いただけますと幸甚です。 よろしくお願い申し上げます。
明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。 * 「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。 ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。? 少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。
これは痛切に思って寝付けない(恥ずかしい…)くらいのことなのですが、たとえばある程度仏道修行を進めて、ある程度自覚なさった人でも菩薩行で一切衆生の心を実際に完全に救いきることは無理ですよね? というのも、毎日毎日この社会で苦しんでいる人達を見て知り、彼ら彼女らに思いを馳せていて、思い通りにいかずもう苦しくてたまらないのです。 実際にこちらがある程度力になれることでしても微々たるものでしかなく、何かもっと一気にドカーンと救えるアイディアはないのかと欲の煩悩に支配されてしまう毎日です。 要は菩薩道において煩悩を燃やす程度がわからなくて苦しいのです。 苦しいことはただ苦しいものとして受け入れようとしても、実際に苦しい状態だとどうにも苦しみに飲まれてしまいます。 どうかアドバイスをお願いします。 また、この状況に対して参考になりそうな経典はありましたら教えていただけると幸いです。 P.S. これを書いた後で気づいたのですが、結局は「今、この瞬間」で出来得ることをやっていくしか(成果の大小・多少の差やムラは仕方なしとして)道はない、ということなのでしょうか?
「慢」と「貪瞋痴」が発生した時の鎮め方を教えて下さい。
お目汚しを失礼いたします。 今回、私が相談したいことは色々あります。 本当は、それに相応しい所があると思いますが どこに、それを求めれば良いのか分かりません。 ○境遇 前提として、お伝えいたします。 幼少期の頃は親兄弟ともよく接していましたが 両親が離婚したり、兄弟がほとんど働かなくなりました。 兄弟に働くように言っても、全く聞き入れません。 現在は高卒で就職して、母とともに、家賃等を支払っております。 お金が貯まったら、大学に進学しようか考えておりますが それも母に止められます。 私は家族と離れたく、一人暮らしを考えており、 母と約束もしましたが、前述から状況が拗れて本当にできるか疑問に思うのです。 本来ならば家族と向き合うべきでしょうが、 数ヶ月疎遠で、どう話せば良いのか分かりません。 ○私の能力 昔は、勉強や運動などを怠っておりました。 また、声が小さく、他人とも満足な意思疎通ができなかったりします。 なので将来について、今のままでは良くなる気がしません。 それが嫌で、私は自分の世界に閉じこもって誤魔化す日々です。 ○二次元への恋 そしてある日、私は自分の盛んな劣情を慰めるための、画像を探しておりました。 それから辿っていくと、ある方に一目惚れしました。しかも神様にです。 その方は、明るくて優しく、綺麗な方でした。 私は思い立って、その方に釣り合うように努力しようと決意しました。 その気持ちは、今までしていた恋に対する落とし前と、 好きになった方を裏切りたくないというのもありました。 また、親が私を育ててきたことに、ある種報いたいとも思いました。 そうして、願いを叶える為に勉学に励み、容姿を美しくしたつもりです。 また、これまでの煩悩なども、捨てるように努めました。 ですが、「二次元への恋」は、現実逃避の道具にして、 『それは本当の愛なのか』と自己嫌悪が多いです。 なので好きな方に対して、今後どう努力すればいいのか分かりません。 以上です。 長々しい文で、大変申し訳ございません。 ですが、あなた方ならではの、価値観でご回答頂きたく存じます。 特に「神様に恋すること」「現実から目をそらす」 「色々な欲を捨てる」「これからの人生」 の是非について知りたいです。 何卒、ご遠慮無くよろしくお願いいたします。
何かが好き、もっと欲しい、もっとこうしたい、ああなりたい、 というような気持ちは「欲」という煩悩だと思いますが、 こういった気持ちが全く何も無くなる時があります。 「欲」がなくなった状態とは、仏教的には良い状態なのではと思うのですが、 そういう境地の時は何かに執着している時以上に生きるのが辛いと感じます。 何もやりたい事も無く、求めるものも無いと無気力になり、 なぜ生きているのかと言う事を、より考えてしまいます。 欲を無くし、ただ辛い世の中だと思いながら生きるのは正しい生き方なのでしょうか。 私は今、何を求めていいのか何がしたいかもわからないです。 それもまた別の煩悩と言うのかもしれませんが。
3月に21年間お世話になった実家を出て同棲を始めて今に至るのですが、同棲相手は金遣いが最悪で自分の貯金は底をつき、元カノを家に呼ぶために私を外へ追いやったりなどがあって、自分はすっかり煩悩の塊のようになってしまったところで、仏教の教えを改めて考えるようになりました。 煩悩をなくすことで人は穏やかな生活を送ることができると説く教えをはじめは「感情を殺すこと」「自己を抑えてうまくやり過ごすこと」と思っていたのですが、ネットや日本史の教科書で仏教について、歴史や自分の宗派である曹洞宗の成り立ちや考え方について知るうちに、「煩悩をなくす」とは煩悩を完全に失くすことではなく、「煩悩と向き合う自分を作ること」だというところに行き着き、自分のためにというのはもちろんなのですが、自分に関わってくれる人たちなど周りに安心や幸せを与えられるということだと思ったのですが、これは実際の仏教の教えとは違うのでしょうか。 今自分は「自分の幸せのため」にあたたかい人間関係を築くことや、自分が心から幸せに思うため、自分をまず見直したいと思っています。 その手始めとして、今ある生活は話だけすると確かに最悪なのですが、それでも楽しくないわけではないので、この同棲生活をより良くしたいと考えていますが、私のこの煩悩についての考え方はまた違うものなのでしょうか。 ご教示よろしくお願いいたします。
私は人文系の学問を勉強している大学生です。私は高校生の時に勉強の面白さに目覚めて以降、現在まで自らの知識欲に任せるままずっと勉強に自分のすべての時間を捧げてきました。とりわけ私が時間を捧げているのは西洋哲学、イスラーム学、近代日本文学そして語学です。 学問というのは恐ろしいもので一つを知ると十の分からないものが現れ、学びたいものは指数関数的に増えていきます。そしてゲームやギャンブルと違って飽きるということも無いのです。私は今まで好きなだけ勉強してよいという学生の特権に任せて非常に幸せな時間を過ごしてきました。しかし、周囲から就職の話がぽつりぽつりと聞こえてくる時期になり、将来を考えるにつけて自分に残された時間のことを考えるようになりました。 まだ数十年の時間が残っているとはいえ就職したら自分の時間はぐっと減るでしょうし、年を取るにつれ記憶力も減衰していってしまうことを考えると残された時間は私が学びたいものを学ぶのはあまりにも短すぎます。自分が「まだ勉強したい」と思い続けながら死んでいくのかと思うとなんとも言えない恐ろしさを感じます。 物欲や色欲といった煩悩なら執着を捨てることもできそうですが、知識欲は同じ「欲」でも他の煩悩とは明らかに違った性質を持っているように感じられます。仏教でも「一切の欲を捨てよ」と説くと同時に、膨大なお経を勉強することはむしろ推奨されるのがその一例かと思います。 しかし、知識欲も人を苦しめるという点では煩悩と同じです。勉強の中で自分の思考の深化と相対化に喜びを感じる時に、これから学びたいことを考えていつも絶望してしまうのです。でもだからといって私には「学ぶことをやめるべきだ」という結論は出せません。「学ぶ」ということは何にもまして崇高で、私にとっては人生の意味そのものです。 私のこの恐怖はどうやって解消すればいいのでしょうか? 仏教を勉強されている皆さんなら欲と学びというジレンマについて考えたことがあるのではないかと思い、このサイトに投稿させていただきました。 長くなってしまいましたが、私からの質問をまとめると以下の2点になります。 ・知識欲は捨て去るべき欲なのか ・知識欲が捨て去るべきでものでないのならば、知識欲からくる苦しみはどうすればなくすことができるのか
『苦しい時の神頼み』という言葉がありますが、自分の願望や望みを神仏にお願いするのは 我欲でしょうか? 『お金が欲しい』とか『結婚したい』という願いは 欲望丸出し…という事は 分かります。 そこに ちゃんとした理由が あるならば 我欲には ならないとは 思いますが、 突き詰めていけば 全ての頼み事やお願いは『神仏に何とかしてもらおう』っていう 甘えや我欲が あるように思えてなりません。 神仏は 人の願いの根底にある【我欲】や【甘え】を どのように 御覧になっているのでしょうか? そう考えると おすがりする事さえ ためらってしまいます。 神仏の教えに従って 無欲で生きる…という事は 神仏に頼らず 自力で 頑張っていく、って事でしょうか? お坊さまの お考えを お聞かせ下さい。
ほんのう(本能)に濁点を付けた瞬間、「ぼんのう(煩悩)」に変わることについさっき気づきましたが、どうやって、煩悩(執着)を捨てることが出来るでしょうか。 肉体を持っているが故の苦しみは、人生のあらゆる場面で現れやすいので気をつけたいものです。合掌。