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癡が分かりません

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貪・瞋・癡という言葉を知りました、それぞれ難しいのですが特にこの癡が分かりません、他と自を分けないとの言葉の意味は理解しますが、実際の自分には理解出来ないのです、体感が大事とのことですが、どうしてもその状態が浮かんで来ません。
確かに自と他を分けないということは人に優しく出来ますし、人の為になることを躊躇いなく出来ると思います、今まで自分のことしか考えなくて、人に優しくするのは人に好かれたいからだとこの年にして気が付きました、こんな生き方は人として情けないですし、人に対しての思いやりなどはまったくの嘘ということになります、これは人として生きていることにならないという気がします。
そんな自分にこの癡がなにか少しでも分かれば、生き方も人への接し方も少しは変わるのかなと思っています。
このような質問で申し訳ありませんが、お答えをいただければ大変有り難いです、よろしくお願いいたします。

2024年8月11日 9:35

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教の教えについての無知

 こんばんは。私より人生の先輩でおいででいらっしゃいますが、私なりの理解をお伝えいたします。
 これらはまとめて「三毒」と呼ばれ、人間の苦しみの元になっていると説明されています。
 その中でもこちらは、仏教の世界観というか、「無常/無我」の体得度合いの低さ、と私は理解しています。
 この世界観は、つまるところ「世界は縁によって紡がれており、絶対的に固定された物などないのだ」という見方です。私たちは子どもに対して親として存在し、妻に対して夫として存在し、会社に対して雇用者(或いは役員)として存在し、結局は「なにものにも関わらずに固定された自分などないのだ」ということです。地球に対しては破壊者?家に対しては住人とか。「10人から見たらそれぞれ10通りのあなたがいる」ということであり、そこから導かれるのは「誰にも見られない(どこからも関係を引かれない)自分」というのはないのだ、とも言えるでしょう。
 ここから「子どもがいなければ親としての自分はいない」訳で、「私が何ならかであるのは、その関係を結んである相手あってこそ」であり、「同じ縁の上にいるという意味で、他と自分を分けない」となるわけです。
 ただ、これを四六時中全てに適用しようとすると、そりゃ大変なことになりますから、この世で生きるすべとしては、「時々それを思い出し、その教えに叶う何らかの行動をする」であろうと私は考えています。

2024年8月11日 23:01
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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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無我が分からないこと

痴とも無知とか無明などとも言いますが、要するに、無我という真理に達していないこと、と初期仏教では言います。つまり、欲や怒りは起こらないことがあっても、癡は悟るまではなくならないということです。
 初期仏教では悟りの段階を四つに分けます。その四段階で「我」に関する煩悩十個が徐々に消えていきます。
 最初の悟り・預流果で有身(私がいる)見(という見解)、(仏教が正しいかどうかについての)疑、戒禁取(しきたりへのこだわり)が消えます。見解が消えるだけでも悟りの段階です。
 第二の悟り・一来果で貪瞋癡が減ります。我が薄くなったということです。
 第三の悟り・不還果では物質的な世界・欲界への興味はなくなりますが、貪と瞋がない梵天界に生まれたいという欲だけは残ります。
 最後の悟り・阿羅漢果で、色界と無色界二種類の梵天界に生まれたい欲も、慢も、掉挙(恐れたり焦ったりする気持ち)も、最後の無明(我)も消えます。
 これで癡が消えるので、癡(私という気持ち)が基になって起こる貪も瞋も消えて、私心のない、智慧だけで判断し行動する覚者になります。
 悟らなくても、日常生活でも、貪瞋癡つまり「私」という気持ちが少ないほどよく、多いほど苦労するのは明らかだと思います。
 真宗では、親鸞が言っていた他力が無我、自力が我ではないかと思います。妙好人が語り継がれるのも、他力=無我に任せて、自力=我が少ないのが、市政の無学の人なのにどう見ても人格者だからではないかと思います。
 ちなみに、お釈迦様は我をなくせとは言いません。自己否定みたいに聞こえるからでしょう。悟るまでは「自分」が頑張らなくてはいけません。我が本当にあるのかどうか、世界の仕組みがどうなのか、真実を知りたければ、変化生滅し続ける現象を観察して自分で答えを出してみなさい、と、励まします。日本にも最近正確に伝わった観(ヴィパッサナー)瞑想です。この辺は、スマナサーラ長老が日本語で鮮やかに解説、指導しています。you tubeでいくらでも見られますので、よろしければご覧ください。

2024年8月12日 13:26
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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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質問者からのお礼

ご回答をいただき大変ありがとうございます。お話により私の理解しましたことは、全て人は縁で繋がっている、縁の無い人というのは存在しない、つまり縁の中で生きているということで、自と他を分ける意識が無意味ということになりますでしょうか。他の方も同じように無意識にでも縁を感じているのですね。縁を大事にしていきたいと思います。それが生きている意味になっていくのかも知れません。大変ありがとうございました。

慈照様 
詳しくお話いただき、大変ありがとうございます、ただ私には難しすぎて言葉の意味だけでも理解するのにとても時間がかかりそうです。
有身見は少し調べてみると唯物論のようだとありました、そう思うと理解に近づくのでしょうか、癡は悟るまではなくならないとのことですので、まずはこの有身見を理解するのが第一段階と思いますが、仏教の素人にはかなり難しいです。
生きている意味と生きていくための生き方を知りたくて模索していて貪瞋痴という言葉に当たりました。
その意味を調べていて、この癡を理解すると何かが分かるかもと思ったのです。
悟りに至るなどはまず不可能ですが、教えを少しづつでも理解していくようにしたいと思います。
ありがとうございました。

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