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博愛主義でも救われますか?

回答数回答 1
有り難し有り難し 16

煩悩浄化の為の仏法の信仰というのは、
結論的には、良い心を持ちましょう。
ということなのでしょうか?
だとすれば、はじめから博愛主義的に生き、そもそも煩悩封じ込めすればいいのでしょうか?
博愛主義で、十分に救われますでしょうか?

でも、これって二重人格になりそうな気もしますが。

2023年8月26日 0:48

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

博愛主義の盲点 人類のエゴ・自我・我の放置

時代は多様性、誰一人取り残されない社会の実現を目指しております。
ですが、その結果、どうか。
いくら理想だけが高くとも現実とマッチしなければその思想は改善される必要があります。
みんなが救われる社会を…!
誰一人取り残されることのない社会を…!
このようなフレーズは実に美しいです。
ですが、その一方でその隙間を狙ってエゴイズムを満たそうとする人間たちがずるがしこい手法で被害者主張マウントを取ったり、過剰な権利を要求ばかりしている。結果、国家運営サイドのサイフはどんどん抜き取られています。博愛主義だけでは何が悪いか。悪を正し、律する教導精神がない為に僧侶や宗教者たちもそういった悪徳問題の解決方法がないまま悪徳を肥やす結果を生みます。
多様性、博愛主義で難民をどんどん受け入れた結果、難民名目のテロリスト、エゴイストたちが日本に押し寄せ川口市のように治安が悪化して日本人が引っ越さなければならないような状況にもなります。
たとえるに優しくおとなしい金魚がいくら博愛主義の精神をもってもデカい魚に食われてしまう現実世界にあるのです。こちら側が悪意に利用されない姿勢を持つことがなければ単に博愛主義であればいいという思想はわが子、我が家族の安全を守れない思想となると私は以前、個人的に感じました。以来、僧侶業界の博愛的な理想は現実問題・現実社会に合わないと気づきました。つまり、ただ博愛主義・人道主義だけではなく、人の心が豊かになる❝教導精神・善導精神❞が伴う必要があると思います。
❝私は万人の友である❞
誰にでも和する精神は大事ですが、悪事をなす人間と友となれば悪事の加担。 
❝自分を殺しに来た人間と友達になる❞
他の悪をして自の浄に同ぜしめて後に自の浄をもって他を教導せしめる。
❝悪趣に赴く人間を目覚めさせる❞
人が悪事をなすのも、たまたま恵まれない環境にあったからともいえます。ですが、それをやめさせることができなければ博愛精神を主張していても、人を教導する力がない。もちろん、その精神を含めての博愛精神であればよいでしょう。
仏教では菩提心を説きますが、菩提心とは相手を自分以上の素晴らしい人に導く精神であり、すべてをよりよく導く精神であります。
よって、私のこの回答もまだまだ全てではありません。
さらによりよく進んでいく精神をアナタが持つことで博愛精神もクオリティが高まりましょう。

2023年8月26日 6:23
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下ご住職様へ
ご回答を頂き本当に有難うございます。
博愛主義の盲点 人類のエゴ・自我・我の放置のタイトルの通りでございます。
薄々は分かっていたのですが、博愛主義に振る舞う方が楽なことから易きにつきたいという甘えでございました。
私にとっては、内道は非常に難しくきついのです。
三毒旺盛な心もあれば、菩薩のような心もある。振り回される弱い自分もあれば、動じない心の時もある。
心の癖のようなものもある。
心が安定しないのです。縁に触れて穏やかでない時があり、これがきついのです。
なので、私にとっての博愛主義の考えは言わば心にお洋服を着せて心を隠すというツールみたいなものでした。
でも、これでは何も解決しない、どころか、むしろやばいですね。

菩提心→難しいお言葉です。
菩提心→これ何なのだろう。
全く分からないです。(勿論、サラッと御教示頂いておりますが、やはり、深くは分からないです)

丹下ご住職様が買いて下ったこの言葉、気になります。
今回、丹下ご住職様の今回の質問の処方箋は菩提心というお言葉を頂きました。
ありがとうございました。

追記
以前、菩提心を起こして
という言葉を聞いたことがあります。
菩提心とは誓願の言い換えであれば、
何に誓うのか、何を誓うのかという言葉ですよね。
これから、考えていきます。

ありがとうございました。

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