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悔い改めるべきか否か回答受付中

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一つの悩みが解決したら次の悩みが生まれます。一つの幸福を覚えたら次の幸福を求めます。どっちの方向性も永遠と続きます。過去も未来も同じであって全体のスパイラルが見渡せる所へ大衆を導ければ一気に全員が楽になります。しかし必然的に個々でその気付きに達しないと無理とも思ってます。いっそ自分の想念を強めて、見えてる現実世界を追従確定させる事ができれば、大勢の人が精神的に楽になるのかなと思ってます。「他人」の向こうに「自分」がいる事実だけでも、他人の精神に植え付ける事は悔い改めるべき考え方なんでしょうか? この文章含め、全ての意味や価値、疑念は個々の中に存在しそれが全てです。お坊さん風に言うなれば、

「無」とは頭の中でさえ唱えず、魂なる精神が先行したその瞬間です。

「煩悩」は無くすのでなく、その先にある自身の姿を捉え全ては手中にあると知れ

わたしの幸福は他人の向こうにあります。逆も然りです。心構えの相談です。
宜しくお願い致します。

2024年6月23日 20:46

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ご相談くださり、ありがとうございます。
まず、あなたが仰る「一つの悩みが解決したら次の悩みが生まれる」「一つの幸福を覚えたら次の幸福を求める」というのは、人間のさがとも言えるものです。この世の中で生きていく限り、悩みや欲望に悩まされることから解放されることは難しいとされています。
あなたが感じるこの永遠と続くスパイラル、その中で「他人」の向こうに「自分」がいるという洞察は非常に深遠です。他人の存在を通して自身を見つめること、そしてその逆もまた真であるという認識、それは「縁起」という仏教の教えに通じるものがあります。すべての存在は互いに依存しあい、独立しては存在できない。あなたが感じるその繋がりこそが、私たちが互いに支え合って生きる仏道の基本的な教えとも言えるのです。
悩みや煩悩は、仏教の教えにおいても完全に無くすことを目的とするのではなく、その奥底にある自己の真の姿を見つめ、それを受け入れることが重要とされています。悩みや煩悩があるからこそ、その先にある真なる自己に到達する機会が与えられているのです。
例えば、あなたが抱える悩みや不満、それは他人との関係の中で生まれるものかもしれません。しかし、それを通じてあなた自身の真実、そして他者との深い結びつきを見つめ直す契機ともなります。他者がいてこそ、自分が存在する。それは逆に、あなたが他者の存在を支えているということでもあるのです。この相互依存の中で、互いに学び、成長していくことができるのです。
「無」とは、すべてのものが包み込まれている状態です。その中で、あなたが感じる「魂なる精神」は、まさに仏さまの無限の慈悲の中にあるのです。その瞬間、その場、その心が、すべてを包み込み、あなたをも他者をも照らす光となるのです。
まず自らの内なる悟りを深め、その光をもって他者を照らすことが大切です。あなたが気づきを得ることで、その光が自然と広がり、他者にも届くようになるのです。
最後に、あなたのお考えが縁起の真理を深く理解し、人間としての存在の意味を見つめる旅であること、心から尊敬いたします。その旅の中で、あなたの光がさらに輝き、他者をも静かに癒し、導いていくことを願っています。
どんな時も、あなたのその真摯な探求心と深い思索が、あなた自身をそして周りの人々を豊かにしていくことを信じています。合掌

2024年6月24日 18:30
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有り難し
おきもち

仏教の目的は、抜苦与楽と成仏です。 生きている人の苦しみをどうしたら癒せ...
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質問者からのお礼

とてもやさしいご回答ありがとうございました。
頭の中でさえ言葉を発していないその瞬間にある種の力が生まれます。
それを上手に使いこなすよう精進します。ありがとうございました。

「煩悩」問答一覧

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

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