総本山と分院ではご利益に差はありますか?
多くのお寺は総本山があり、各地に分院があることも多いと思います。
お参りをする時に、総本山にお参りをするのではなく分院にお参りをしても祭られているご本尊が同じであればご利益も同じなのでしょうか?
また、例えば子宝・安産のご利益があることで有名なお寺の子宝・安産お守り等は、分院の形状が違う子宝・安産お守りでもご利益は同じなのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏教とは何か
ご相談拝読しました。
ご利益が同じか違うかという話の前に、仏様とは何かということを抑え直す必要があるかもしれません。
仏様とは真理に目覚めた人です。歴史上に実在した人間としての仏様はお釈迦様一人です。お釈迦様は世界の創造主や運命の支配者ではなく、一人の人間です。
そのお釈迦様以外にも仏様は沢山います。阿弥陀仏、薬師如来、毘盧遮那仏…などなど。それらの仏様は歴史上に実在した存在ではなく、お釈迦様の目覚めた教えをあらわした宗教的事実としての存在です。
どんな仏様であってもご利益は「成仏(仏様に成ること)に導く」というものです。
そのための方法論が違うのでお寺によっては祈祷をしたりお守りを扱ったりしますが、けして祈ればそれだけで願いを叶えてくれるというご利益があるわけではありません。そこにはその個人的な祈りを入り口として、より大きな願い、すなわち真理に目覚めて欲しいという仏様の願いがかけられているのでしょう。
仏様の目覚めた真理はたとえば四諦として表されます。
四諦
①苦諦:一切は苦(思い通りにならないこと)である
②集諦:その苦であることには原因がある
③滅諦:苦を滅した境地がある
④道諦:苦を滅する道がある
もしも私たちの個人的な願いをがいくら叶おうと、それはやがて消え去ってしまうものであり、消え去る時には苦を生じるものであることには変わりありません。苦の究極としては死が挙げられます。死は一切を奪っていきます。どんな人も老い、病み、やがて死ぬ事は避けられません。
その苦をいかがせん?というのが仏教です。
総本山でも分院でも目指すところは苦の根本解決、すなわち成仏です。そのためにはたくさんの道があります。あの道とこの道では矛盾するということだってあるでしょう。
でもそれは道の優劣ではありません。この私が歩めるのはどの道かという事が大事です。どんなには早く目的地に近付ける道でも険しくて歩めないのなら意味がありませんし、ゆるやかな道でも生きている間に到達できないのならこれまた然り。
そういう意味ではご利益(説かれる道)に(教えによって)違いがあるということは言えるでしょうか。
質問者からのお礼
四諦という言葉を初めて聞きました。
とても勉強になりました。ありがとうございます。