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悟りとは..............?

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こんにちは。お世話になっております。僕は真理を求めて仏法を学び、座禅の修行も行っている在家信者です。
僕は印可を受けたとされるお坊さん(名前は書きません)の本や法話を聞いたことがあります。
※この方は禅宗の方です。
僕は、そのお坊さんの言っていることを「なるほど」、「たしかにそうだ」と深く納得することができます。僕が悟りを得ていると言うと、明らかにおこがましいお話です。
ですが、個人的には若干な手応えがあります。
これは曹洞宗でのお話ですが、「修証一致」という言葉、これは「修行させてもらっている」と言えると思います。なぜ修行できるのか、それは生かされているから。修行していることが仏法の中に生きている何よりの証拠、ということから修証一致思想が出来たのだと思います。
だとしたら、草木国土悉皆成仏も理解できます。草木や国土さえも、仏法の中にある命そのものなので、仏そのもの。成仏は仏に成るというよりも、仏に成っている、ということだと思います。これが「無功徳」や「無智亦無得」だと思います。自己そのものが仏法なのだから、得るべきものがない。
この身心さえも、自己を超越している。眼耳鼻舌身意、これら全て苦です。見えるというより、見えてしまう。聞こえるというより、聞こえてしまう。意識だって、考えたくなくても座禅をしていると勝手に雑念が出てくるものです。「自己」と定義できるものはどこにもない。このことから、自己(妄想)と法を分けることができないのは明らかです。自分の五感を通して物事を認識していると考えますが、事実はその身心も仏法の働きです。
ですが、ここからがよく分からない。僕のは結局、理屈に過ぎないんじゃないか?と思っています。もちろん、理屈では自分は仏だということは分かります。しかし、それを実感できていないのです。現段階では、「自分が無い」というより、「今まで自分自分って言ってたけど、自分って何?」
「自分」というものが分からなくなった感じです。ここからが本題ですが、悟りというのは本当に実感として自分が無くなる感覚になるのか?ということです。つまり、悟りというのは「境地(特別な心境)」なのか、ということです。
仏教に詳しい方、ぜひ教えて頂きたいです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自己とは、悟りとは

こんばんはー。

理屈は、

対象と自己を分けています。

観察対象とかの対象です。いま、悟りも考察対象になってるので対象です。

自分という法が対象という法を観察する。

すべて法だ。しかし実感がない。

古代からの仏教徒の悩みみたいですよ、それ。

よく勉強され、よく考えていますねー。

では単刀直入に行きます。

さてまず、自分←これはじつは自分というイメージです。

これは感じたもの、考えたものをつなぎ合わせて作り上げた頭の中のイメージ。

無我はこの「自己イメージ(我)」に対して、いいえ、あるのは瞬間瞬間の感覚や考えのみですよと教えてくれてます。

自己イメージを守ったり、落ち込んだりの執着からはなれて、丁寧に今の感覚、思考を観察し、それらに気づいた上で、巻き込まれず流していきましょう。
これが瞑想だと思います。

次に悟り。

脳内と外界は決して「=」になることはないのに、我々は「=」と無意識に思って生活してる。

感覚、考え、感情、気持ち、概念、これらは皆、観察対象との接触から
作られた脳内のものです。

脳内は外界や対象と「=」ではありません。

女の子が彼氏について考えた時、その考えは彼氏とは違います。

ですから誤差を減らすために相手を知っていくのですが、

仏教では究極それは=になることはないと説きます。
だからそんなにクヨクヨしないでいいんだよというんですね。

悟りについて考えた時も、それは悟りではありません。
では、自分とは、悟りとはなんなのか?

私の現時点での答えは、

生存の中で喪失への恐怖から、ぎっちり握っている「手」の中のものを、
手放すこと。

そして、手放せるからこそ、適切な時に適切なものをまた握れる。
結果、生きやすくなる。

何かを得られるのが悟りじゃない。
無智亦無得
これを境地というなら流れるような境地かもしれません。

手放すものの中に先程の自己イメージも当てはまりますね。

そして、最後に、
自分がなくなる感覚になるのか?

宗派によって考え方が違うようです。

私たちが感じるのは体を持つ限り、
眼耳鼻舌身意をとおしてしかありえません。

この等身大の感覚そのままが法界を感じてるということで
いいと私は思ってます。

この感覚を捨てずして自分は大きな世界の一部と思ってます

gensyudo@gmail.com

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人生も階段ばかりじゃしんどいです。 たまには踊り場で一緒に泣きませんか? ...
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"本当に実感として自分が無くなる感覚になるのか?"

「     」

というわけなんだよ。

<追記>
"悟りは言葉では表せない、という事でしょうか"
んーまぁなんというか…。

有るわけでもない。無いわけでもない。
でも、有るわけではないこともないんだけど、
やっぱり、無いわけではないこともないというか。

ところで、キミなら「  」の中に何を入れる?

hasunoha.tenrakuin@gmail.com

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ツォンカパ大師の二諦説

斉木さま

「悟り」とは、菩提心を原因として、智慧と福徳が条件となりて、結果として得られるものとなります。

特に智慧は「空」について知る力の集積、福徳は功徳の力の集積となります。

やがて智慧の力が、仏陀の法身へと繋がり、福徳の力が仏陀の色身へと繋がることになります。

円満なる悟りへと向けては智慧と福徳をバランスよく修習していくことが求められます。

さて、もしも、皆がそのまま、あるがまま、もともとで仏であるのだとしたら、既にこの娑婆世界における衆生の苦しみは一切なくなっているはずです。

ならば、hasunohaへの投稿などもないはずです。

しかし、現実は全くそうではありません。皆、一様に苦しんでいるままです。

では、どうして、そんな誰でもわかるようなことであるにもかかわらず、正反対なことが論じられてしまうのか・・

要は視点の違いについての誤解からであります。

仏さまの立場から観る世界と我々凡夫の立場から観る世界を混同させてしまっているのであります。

仏さまの立場から観る世界は、全てが真理(空性)として映えており、この娑婆世界も清浄なる世界と映えられておられます。その立場からであれば、草木国土悉皆成仏とも言えなくもないでしょうが、この表現自体も正確には間違っているものであります。

いずれにしても、我々凡夫の立場からでは、智慧と福徳の修習に努めていかない限り、迷い苦しみの世界である現実に変わりはありません。

とにかく、皆がそのまま、あるがまま、もともとで仏である、悟っているというのであれば、それは要は仏教無用論でもあり、仏教を根底から破壊してしまうものであります。

凡夫のモノの見方と仏陀のモノの見方の正確な違いについて学ばれたいとなりましたら、ツォンカパ大師の二諦説について学ばれることをお薦めさせて頂きます。

特に下記の論文はあまりに秀逸過ぎて、拙生が稚拙な論を論じるのをブログ等で辞めたきっかけにもなりました。

「ツォンカパの後期中観思想における二諦説の研究」拉毛卓瑪氏
https://bit.ly/3mSF6CG

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

沙門一緒様、回答ありがとうございます。
なるほど...。自己は法だということに気付いても、実感がない。これで悩んでいたのは僕だけではなかったんですね。一つ、スッキリしました。

理屈だけだとやはり「私」が法を観察していることになってしまうのですね。実践あるのみ、ということですね。

「手放す」というのが凄くしっくり来ました。今までの知識を一度封印し、五感を通して事実に触れていくことが大切なのかもしれません。

転落院さん、回答ありがとうございます。「 」とは、悟りは言葉では表せない、という事でしょうか。
以前、見性体験したと思われる方の言葉に、「何もかもが無だった。いや、無も無かった」という言葉があり、「ん?無も無い?」と疑問に思ったことがありましたが、やはり悟りというのは悟った人にしか分からないものだな、と思いました。それくらい難しいのですね。

追記回答ありがとうございます。
とても難しいですが、敢えて言葉で表すとするならば、「空」だと考えています。まさに、「有るわけでもない、無いわけでもない。 」
たしかに今この瞬間には有るが、次の瞬間には無い(無常)。いや、そもそも物事は独立して存在できない(縁起)から無いのか?いや、有るだろ。いや、有るわけでもないのか...。
.......。まあ、「空」としか表現できないという感じです。

川口英俊様、回答ありがとうございます。
おそらくそれは、解釈や教義の違いだと思います。曹洞宗では、衆生は元々仏であると解釈しています。自らが仏であることに気付くのが「悟り」とされています。おそらく、この「仏」自体の解釈が違うのではないかと思います。僕は「仏」を「悟った人」ではなく、「いのちの働き」だと解釈しています。
仏に成るのではなく、仏に成っていることを確認する。「生死というは即ち仏の御命なり(道元)」ということです。
仏法はそれを教えてくれるとても尊い教えです。無用なんてどうやっても思えません。
もちろん、苦しみがあるのは事実です。けれど、この世の根元は「苦」です。「苦(無常)」だからこそ、生かされているのではないでしょうか。そう考えると、苦しみは当たり前です。苦しみがあって善いも悪いもない。事実です。苦しい時はひたすら苦しむ。それが苦しみからの唯一の解脱だと思います。
川口様の言う、ツォンカパ大師さんがとても気になるので勉強も兼ねて調べてみたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ