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どうしたら楽になりますか?

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有り難し有り難し 10

私は昔から人見知りです。自分の感情を素直に人に話せません。

こんな性格だからなのでしょうか、同窓会やお友達同士の集まりに呼んでもらえません。フェイスブックで過去の友達にフェイスブックを通して連絡をしましたが、一切返ってきません。返してくれるお友達は最近できた友人のみ。

みんなと仲良くしたい、その思いだけなのですが、お友達同士の集まりや同窓会に呼んでもらえない、それを知り一回一回に傷つき、私はいらない存在なのだと思います。過去に囚われすぎなのでしょうか?本当に辛いです。

鬱があるため、益々考えてしまいます。

アドバイスを頂ければと思います。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

創作活動のススメ

自分を言葉で表現できない人なんでおからぐらいいますよ。
それならば自分の何かを何かで表現すればいいのです。
粘土でもいい、楽器でもいい、絵でもいい、料理でもいい、文字でもいい、どんな作品でもいい。
あなたはここにそれを記した。十分に自分を表現できている。
人見知りで、感情を表現できなくても自分なりに好きな事をやってみてください。
自分が生み出す何かを。
モノを見る時、ものに出逢う時、人を見る時、人に出逢う時、そこに余分な自分の思いのオプションをつけずにいることです。それがいつも自分を苦しめていると気づいてください。
どうして出来立てのラーメンやチャーハンに何故食べる前からコショウかけちゃうんすか。
それに近いことをしている自分に気づいてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

はっと思うことがたくさんあります。

好きなこと、あります。

好きなことできていなかったから初めて見ようかな。

本当にありがとうございます。

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