家系は個人より尊重されるべきでしょうか?
父の家系が100年以上続く熱心な宗教の一端です。そちらの親族は9割が信者で、本家から嫁いできたような人も珍しくありません。
私も長期休みに帰省する度に墓参りや大きな本部に挨拶に行くなどさせられてきました。
が、私は宗教に大らかな母方や海外留学の経験、クリスチャン系の学校を出た等の影響もあり、宗教全般に関して「考え方や歴史は興味深いと思うし、御朱印集めや神社仏閣巡りは楽しい。が、価値観等に関してはできる限りフラットでいたい」という考え方です。
しかし祖父が癌を患ったこともあり、死ぬ前にと可愛がっている孫達を入信させようとしています。
父は祖父ほど熱心に信仰していませんが、私が入信したくないと説明しても、生い立ちや親族のプレッシャーから「入信するのは絶対。イエスかはいしかない」と言います。
普段は私のしたいことを全面的に応援してくれるだけに、ショックも大きいです。
どうしても振り切れず、とうとう昨年洗礼の初期段階のようなものを受けさせられました。
私が生まれる前より親族には多方面でお世話になり、現在も応援して頂いている身です。それに対して本当に感謝していますし、非常に恵まれているとも感じます。
親族の皆様がいるからこそ、今こうして元気に楽しく生きているというのも分かっています。
しかし、それでも入信するのは本当に嫌なのです。「たかが20年ほどしか生きていない若造が何を」と鼻で笑われると知っていても、自分の主義主張を否定され、それ以外に選択肢はないと決められるのは嫌なのです。
先祖代々の信仰やしきたりは、自分の心に素直で自由であることよりも尊重されるべきなのでしょうか?
私にもっと決断力や振り切れるだけの力があればよかったのですが。
現在新型肺炎の流行に伴って、帰省等が憚られているので親族からも洗礼の続きからも距離を保てています。
もうすぐ大きな転機があるということもあり、出来るだけ心残りは残しておきたくないです。
「フラットでいたい」と主張しつつ、こちらでご相談させて頂くことをお許しください。
よければ、仏教という観点からアドバイスを頂けると非常にありがたいです。
どうぞよろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「私の我」は大きくなったり小さくなったり
社会に生きている限り、「私」一人で独立した人格ということは、じつは成り立っていません。完全な悟りを開いた阿羅漢だけ、社会的に縛られても独立していられるとは思いますけど。
一人で生活できない子供の間は「○○家の子どもの私」。どこかに就職したら「○○家の子どもで△△会社の私」。結婚したら、「○○家の子どもで△△会社に勤める××さんの妻の私」。
会社を辞めたり、離婚したら、その関係の「私」はなくなります。なくなっても、関係を続けていたい人は、例えば「△△会社に勤めていた私」をいつまでも持っていたがります。
ちっぽけな「私」を守ったり帰属させてくれるより大きな「私」があると安全です。反面、嫌なものとの関係は、断ち切りたいけど、セットで来られると……
やめる時は死刑になる時だという宗教も世界にはありますが、それほどでもないのでしょう? それなら、「○○家の子ども」は、後々まで残りますので、その縁で付き合うのだと割り切ることができないでしょうか。
血縁を切るのは無理でも結婚などの法的なもので切る、さらに精神的、金銭的にだけでも「○○家の子ども」から完全に独立したら、その宗教ともセットで独立できます。その上で、産み育ててくれた親だからその恩は忘れないという気持ちだけは持ちつつ、普段は離れていることもできるでしょう。