過去のことが過るとき
自分はこのhasunohaで過去の罪の向き合い方などについてたくさん相談しました。
詳しくは過去の質問と私の煩悩の欄を見ていただくと幸いです。自分は現在21歳で今から5~6年前の時の罪について今年のこのコロナ渦の影響で自分と向き合う中で罪の重さを知り、因果応報なのですがそれについてずっと苦しんでいました。そのことについてhasunohaでたくさんのお坊さんに相談に答えていただいて自分なりに仏教についても少し勉強しました。もちろん罪についてはしっかりと反省するのは当然ですが、仏教は未来や過去に執着するのではなく今を生きるという自分なりに解釈しました。ですが、やはり自分の中でどうしても過去のことが過ってしまいます。執着してはいけないと心の中で思っていてもどうしても過ってしまいます。お坊さんの皆様にもしどうしても忘れたい過去や過ちがあるとするならばどのようにして対処をしているのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人か?畜生か?
"執着してはいけないと心の中で思っていても"
「執着してはならぬ」という「執着」は、それはやはり【煩悩】であり、あなたの人生を蝕む要因かもね。
"仏教は未来や過去に執着するのではなく今を生きる"
たしかにそうはいうものの、これは無反省でいいという意味ではない。本当の仏教の歩みというものは、なんでもかんでもわけもわからず闇雲に有難がるところからはじまるのではない。深い【慚愧】の念からはじまるものなんだ。
【慙(ざん)は内に自ら羞恥す、愧(き)は発露して人に向かう。慙は人に羞(は)ず、愧は天に羞ず。これを慙愧と名づく。無慙愧は名づけて人とせず。名づけて「畜生」とす。】『涅槃経』
反省するから恥に思う。神仏に恥じ、隣人に恥じ、恥を知るものこそが人間であり、無反省の恥知らずは【畜生】である、と『涅槃経』には厳しいご指摘がなされている。あなたの犯した罪がどれほどのものなのかは、とりあえず私には興味はない。しかし、自らのかつての悪行を反省し悔いているのであれば、あなたはその点において名実ともにちゃんと人の心を持った[人]である、と仏教は認める。あなたの頭に過去が過ぎるとき、それはあなたが畜生ではなかったという事を証明している瞬間であり、「これからも、ちゃんと人の心を具えた人でいなさいよ」という呼びかけなのかもね。
今、「すべきこと」
こんにちは、初めまして。
お釈迦様のお説法に次のようなお言葉があります。
過去を追わざれ、未来を願わざれ。
およそ過ぎ去ったものは、
すでに捨てられたものである。
また、未来はいまだ到達していない。
そして、現在のことがらを動ずることなく了知した人は、その境地を増大せしめよ。ただ、今日まさにすべきことを熱心になせ。
前半は、あなたが「仏教は未来や過去に執着するのではなく今を生きるという自分なりに解釈」とした通りのことです。あなたの解釈はその通りです。
しかし、それは仏教の入り口に過ぎず、一般論でも言えてしまう事です。
かの流行り文句、今でしょ!のように。
だから、ともすれば「過去」に「執着」し始めるのです。
肝心なのは後半です。
「今日まさにすべきことを熱心になせ」とあります。
あなたが今日「熱心」にしていることは何ですか。
ここでお釈迦様が説かれている「すべきこと」は、一般論ではありません。
学業でもないし、就活のことでもありません。
いくら、人生経験等を積んでもそれは「すべきこと」に該当しない可能性があります。
「すべきこと」は、単純な話、仏教を学ぶこと、そこに身を置くことです。
あなたの宗旨が分かりませんので、あまり深くは言いませんが、各宗派によってその学びのスタイルは違います。ご説法にあるように、「現在のことがらを動ずることなく」を解釈し、目指す方向性に種々あるという事です。
一度、ご縁があるならば、仏教入門の書籍を一度取り寄せられて学ばれるのも一つの方法かと思いました。
質問者からのお礼
お礼を申し上げるのが遅くなってしまい大変申し訳ございません。
お二方のご回答で仏教からの教えが自分の中で学べたような気がします。
貴重なご回答本当にありがとうございました。