hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

高野山真言宗の結縁灌頂のご縁とは?

回答数回答 1
有り難し有り難し 21

こんにちは!
以前は高野山真言宗の参与会の半袈裟を着用して他の宗派のお寺に参拝しても良いですか?の質問に回答頂きありがとうございました。
その後の2020年は良いことも悪いこともありつつ概ね楽しく過ごし、高野山への参拝をエンジョイしています。
半袈裟を着用する事によって良い変化があり、それまでも自分は高野山が大好きだと思っていましたが、より身近に感じたり「私はここに帰ってくる」という気持ちが少し強くなりました。
気持ちの面で帰れる場所ができたというか…これは新しい発見でした。
「行く場所」ではなく「帰る場所」に変化して不思議な気持ちです。

今日は高野山真言宗で大切な行事である結縁灌頂について質問です。
参与会に参加しましたし、せっかくなので2020年に初めての結縁灌頂を経験したいなぁ!と思っていましたが、今年は状況が状況のため断念しました。
そこで、現時点で2021年の5月に予定されている春の結縁灌頂に参加して是非ご縁を結びたいと考えています。
…しかし疑問が生まれました。

春と秋の結縁灌頂では金剛界と胎蔵界と違いがあり、それぞれに参加してご縁を結んでも良いし、何度も参加する方がいるとも知りました。
(気持ちを新たにご縁を結ぶぞ!というのは悪い事ではないと知ったので、回数については疑問はありません)
私が疑問に思ったのは、例えば私が春に初めて結縁灌頂でご縁を結び、同じ年の秋に参加してご縁が2つできたとします。
そして次の年の春と秋に再度参加したら4つのご縁になる可能性があります。
適切な言葉がわからないのですが、ご縁の有効期限があるのでしょうか?
有効期限という言葉は全然違うと思うのですが、結縁灌頂でご縁を結ぶぞ!と思い立ち結んだ後に次に結ぶまでがご縁なのか、それとも毎年ご縁は変わるもの(増えて行くもの?)なのか?と疑問になりました。
わかりにくい説明でごめんなさい…。
つまり「今年はこのご縁」なのか、または「気持ちの区切りがご縁」なのか自分なりに調べてみましたがよくわかりませんでした。

前回の質問に引き続きとても初心者な疑問のお導きを頂ければ幸いです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

結縁灌頂は「生まれ変わりの儀式」人生の転機に。

こんにちは。恵成と申します。
高野山で15年修行し、10年ほど結縁灌頂に出仕させていただいておりました。
その際、先輩諸師から聞いたお話がとても印象的でした。
「結縁灌頂は生まれ変わりの儀式である」というものです。

そもそも灌頂というのは、古代インドにおける即位の儀式が元となっています。
王子が、新たな王となるとき、インドの四海の水を集めたものを頂(頭頂部)に注ぐ儀式だったのです。
それが密教に取り入れられ、「いち僧侶」から「教えを伝える僧侶(阿闍梨)」となる際に行われるようになったのです。
昔は、灌頂を受ける時は、あらたな名前(灌頂名)も与えられていました。弘法大師空海、お大師様が与えられた「遍照金剛」という名前も、灌頂名です。
つまり、灌頂は「それまでとは違う、新たな存在となる」まさに「生きたまま生まれ変わる」儀式だったのです。

日本では、お大師様が結縁灌頂を行った事が起源となり、今では一般の方も受ける事ができる結縁灌頂、真言宗の僧侶となる際に受ける伝法灌頂など、やはりなにかの段階に達する時に受ける、とても重要な儀式となっています。

さて、本題ですが、「結縁灌頂のご縁に有効期限はあるか?」という質問にお答えするならば
「もちろん期限はありません」とお答えいたします。
では、なぜ結縁灌頂を何度も受ける方がいるのか?
それは、「生まれ変わりの儀式」であるからです。
おっしゃる通り、気持ちに切り替えと申しますか、新生活を始めた時、人生に変化が生じた時、そして迷いが生じて生活を見直したい時など、人生の転機となるときに「それまでの自分とはお別れし、生まれ変わった気持ちでまた新たに仏様とご縁を結ぶ」為なのです。

結縁灌頂では目隠しをし、余計な情報を遮断して、暗闇の中自分を見つめます。
何も見えない恐怖、自由の効かない恐怖...そういった「死の体験」から、仏様との出会い。
まさに生まれ変わりを体験する儀式が結縁灌頂なのです。

なので、何度も受けても良いし、一度だけでも良いのです。
新たに受けたからと言って、以前の仏様と縁が切れる事はありません。
遠くの恩人に1年に一度会いに行くように、仏様に会いにゆき、ご縁を確認するようなものでしょうか。

仏は常にあなたの中にいらっしゃいます。
その事を、自分自身で再確認させてくれる儀式が、結縁灌頂なのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

質問者からのお礼

恵成さんご回答ありがとうございます!
「生まれ変わりの儀式」と聞き、ストンと納得しました。
そして「生きたまま生まれ変わる」「それまでの自分とはお別れし、生まれ変わった気持ちでまた新たに仏様とご縁を結ぶ」というご説明であぁ、なるほど!と今の自分の気持ちにフィットしているとも感じました。
現在のわたしは精神的に何か迷っているわけではないのですが、ご縁を結ぶことを気持ちが求めているので、来年の春に是非参加したいと思います。
ご回答ありがとうございました!

「真言宗」問答一覧

愛染明王様のご真言を一般人が唱えて良いか

初めまして。 私は、実家の宗派が浄土真宗ですが、中学校と高校が真言宗の学校であり、真言宗のお寺によくお参りに行っております。 そのような中で、真言宗の僧侶の方がお書きになった本を拝読し、YouTubeを拝読する機会があり、愛染明王様のご真言が書かれておりました。 そこで、自分にとっての良縁が結ばれるようにと、自宅で白い紙にお願い事と自分の名前を書き、その紙を両手で挟んで 愛染明王様に語りかけ、ご真言を毎日何回か唱えております。 すると、私にとって良い意味で不思議な出来事がたくさん起こり始め、なんだか毎日が安定して楽しい未来を想像してワクワクしてまいりました。 しかし、ネットでより深く調べてみると、「ご真言を素人が唱えるのはよくない」「敬愛法は素人が安易に行ってはいけない。代償が起きることがある」と書かれており、少し不安になりました。 そこで私は、「確かに、自分はご利益の内容をきっかけにご真言を唱え始めたので、不純で恐縮だった。」と反省しつつ、 「愛染明王様のおかげさまで日々私は安心して楽しく暮らせるようになったのだから、その感謝と挨拶を、愛染明王様が祀られているお寺に伺ってお伝えしよう」と考えるようになりました。 そしてそのまま愛染明王様との繋がりを信じ、ネットの記事を気にせずご真言をお唱えしているのですが、良いのでしょうか?また、よくお参りする真言宗のお寺とは別に、愛染明王様が祀られているお寺やその他のお参りしたい神社仏閣に複数お参りに行くことは、良くないことなのでしょうか?

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

真言宗のお坊様

不躾なお話になりますが、お許しください 私は単身者もうすぐ40になります。 福祉の仕事で、専門職として働いておりました。 10数年勤めておりました。やりがいはもちろんあるのですが、お役所仕事と言いますか、毎日の大人同士の人間関係を大切にしてその日を過ごす。そのような雰囲気があります。 ここ最近は無気力な気持ちに苛む事が多くなりました。これについては私生活における大きな悩みも要因でした。少しメンタルの不調が続いています。 今はまたチャンスを頂き、同業他社で働く予定で仕事開始を控えております。 経済的な事もあり、求人を読み漁ってました。その中でこれがやりたいという気持ちも一切湧かず、前職と比べたら給与も安く肉体労働系の仕事など今より条件が悪くなるものばかりです。 働く事は生活のためであるのだから自分の考えでは甘いと思います。 物事を思い詰めてしまうところがあり、何事も見通しが持てないと不安が強くなる特性もあります。 今までの仕事での充足感や必要とされていた感覚を捨てて、異業種に行く怖さがとても強くあります。 そんな中ここ数年、YouTubeなどでお坊さんの話を聴く機会を多く持ってました。 そして生まれ育った環境の影響もあり、真言宗僧侶に興味関心を持っております。 なぜ興味を持ったのかというのも正直なところ、仏教の先人達の教えを学び、自分の人生をより豊かにしていきたい。というのが大きな理由になります。僧侶になれば自分の精神的な弱さも含めて救われるのではないか?と考えました。人のために役立つ事は苦にならないのですが、反面人付き合いが得意ではありません。人間関係の疲れ、俗世から脱出したいというのもあります。 僧侶といっても宿坊へ就職する感じになります。 お坊様からこのような考えについて何かご意見頂きたかった事。 男性社会であるお寺(宿坊)での実際の業務や修行の話を伺いたく相談いたしました 私の勝手な想像ですが、お寺(宿坊)が僧侶としての道を支援して頂ける。これは一生仕える気持ちでそのお寺に就職という事を相手様も希望している。生半可な気持ちでは来て頂きたくない。というのが本音ではないかと思っております 次の内定が決まった福祉の仕事を長く続ける事が、今自分にとっての最適解と考えてはおりますが、この次はお寺で働きたい。とやはり考えてしまいます 何か方向性を示して頂けましたら幸いです

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

真言宗の僧侶になるには

僧侶になる人の心構えを教えてください。 自身を修行の場に身を置き、一切言い訳や弱音を吐けない場所で仏教を学びながら、自分や周りの人生を仏教を学んだうえで豊かにしていけるのでは?と考えてます。 高野山の宿坊では宿業務の傍ら、僧侶になれます。と求人が出ております。 このような場所に身を置いて学ぶ事の想像が出来ませんが、どんな人間でもそれなりの精神的成長は見込めるものでしょうか? 今は都会で暮らしており、少し人生に疲れているところはあります。何事にも中途半端になってしまうところもあります。 ですが、高野山の宿坊を調べてるうちに、ピンキリとあり、結局のところお金が神様と考える資本主義の世の中から断ち切れるか?修行の場にも俗世の欲望や煩悩から切っても切れない場であるのか? 全ては自分次第だとは思いますが、何かアドバイス頂けたらと思います。 真言宗にしたのは高野山含めて昔から馴染みがあります。 あと人との関係性を築くのがあまり得意ではなく、大体独り行動が多くここまで来ました。医療系の仕事で業務の会話のみで成り立つ、女性に囲まれた環境が長かったです。 男性社会の人間関係はどのようなものかも実情を教えて頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 24
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ