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少女漫画の様な話ですが。

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有り難し有り難し 18

私には幼なじみがいます。
家も裏同士で、よく遊んでいました。
中学に上がると少し距離ができ、高校は別々になり、そして成人式を機にまたよく遊ぶようになりました。
大勢で遊ぶこともあれば、2人だけで遊ぶこともよくあります。

お互いに家族の話や仕事の話、恋の話、趣味の話などをしている間に、私は彼を好きになっていました。
ただ、一緒にいる時間が長すぎて、お互いの事をよく知っていて話が合い、楽だから好きと錯覚しているのかと思った事もありました。
でも、周りの子に相談したら、それは恋だと言われ、異性として好きなんだと思っています。

彼に好きと言えば楽になるとは思うのですが、どうしてもこの関係を壊したく無い。
彼の好きな女性のタイプが、私と真逆のタイプなのを知っているから言えない。
いろいろと理由を付けては2年以上このままです。

誰よりも側にいるけれど、1人の女性としては見られていない。
幼なじみとしか思われていないのだと、彼の言動で伝わってきます。
昔からの知り合いと恋愛なんてできないと言われたこともあります。
だから、彼から毎回恋愛相談を受けては、アドバイスをし続けているのです。

いつまでも彼に固執して、次に踏み出せないのは時間がもったいないとも思うのですが、彼と遊ぶ時間を無くすこともしたくない。
でも、遊べば遊ぶほど、これでカップルだったらどんなに楽かとも思ってしまう。

私に好意を寄せてくれる男性が現れ、そちらを好きになろうと思い行動をしても、どうしても幼なじみの彼と比べてしまい、好きになれませんでした。

私はこの先、ずっとこんな思いで過ごし続けるのかと思うと、いい加減にしなくてはいけないと思うのですが、何もできないのです。
一体、どうしたらいいのでしょうか。
どうしたら勇気が湧いて、行動を起こす事ができるのでしょうか。
少女漫画だったら、ハッピーエンドになれるのにと思ってしまうのです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

少女漫画ならではの急展開!

ボブ子さま、ボブ子さま!ご注進、ご注進!(; ・`д・´)
このマンガ、急展開です。
この少女漫画企画は、急遽、僧侶マンガに乗っ取られました!
ひょっとしたらハッピーエンドではなくジョーブツエンドかもしれません!
「ナナナなんですって!?どういう事!?」
つまり、主人公のボブ子さまが好きな幼馴染の彼との関係がどう転んでもOKなんス。
「どう転んでもOK?」
フツーのマンガですと、不幸は不幸っていう図式なんスけど、僧侶マンガだとタッチが変わるのです。
仮にフラれたとしてもむしろラッキーになっちゃうのです。
「フラれたら悲しいに決まってるじゃないの。どういうことよ。」
つまり、この回答僧の丹下のように、ずっと好きだった女性からフラれていじけてた時期があったんスけど、それがキッカケで他の女子から新しい恋が芽生えて、付き合ったんスけどバイト先に好きな先輩が出来たって言われてフラれて、また別の女性と付き合って、その子も女友達からの嫉妬にあってすぐに分かれて、その後付き合った彼女とハチャメチャあって(中略)…その子が逮捕されたりで…ヤクザのオンナだったりで…その後その女性と別れて、ドキューンバキューン色々あって、今のカミさんに出逢えて幸せになったので、結局、本人が地獄だと思っていた事も、後になればただの1プロセス、過程の一つに過ぎなかったということが分かって、結果的に損得苦楽の心を超えて無我になって悟り開いちゃって世の人にホトケにかわって悟りの心を説き広めるという壮大なストーリーが僧侶マンガなんだそうです。
「え?つまり?私フラれちゃうわけ?」
いえ、フラれてもOKになるってことっス。だから、告っちゃってもOKなんだそうです。
ハッピーエンドを通り越して、涅槃エンド、サトリエンドなので。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

思わず笑ってしまいました。
どう転んでもOK、フラれてもOK。
この言葉に心が軽くなりました。

ハッピーエンドを通り越して、涅槃エンド、サトリエンド。
頑張ろうと思います!
ありがとうございました。

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