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劣等感の克服

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有り難し有り難し 8

24歳女です。
自分の小ささに押しつぶされそうです。

わたしは専門学校の出身ですが
大手企業に勤めることができました。
大手ということで、周りは高学歴ばかり。

バックパッカーで海外渡航歴があったり
頭の回転が速くて会話が面白かったり
元芸人だったり
音楽の知識がアーティスト並みに多かったり

良くも悪くも普通、
右と言えば右、左と言えば左、
というように生きていた私にとっては
周りがキラキラして見えて
自分の劣等感に押しつぶされそうです。

自分にないものを手に入れるために
行動しようと思って
得意な作り物を頑張ってみたりしたけど
やればやるほど、自分なんてこんなもんか、と
あの人達とは肩は並べられないのだなぁと
思って凹んでしまいます。

例えば海外渡航歴や、音楽を感じるスキルなど
わたしは感じられない芸術のセンスとか
感じられる人に強い憧れを持ってしまうとか。

無駄なプライドであるのは分かってますが
どうしても自分を受け入れられません。

周りの人がカッコよくて、
わたしは全部ダサいのだなと、自信がないです

無駄なプライドは捨てて
何も知らない自分を許容して、これから全部知っていくつもりで、たくさん傷ついたら何か変われますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一芸に秀でた人でも他はダメだったりするもんです。

天才科学者でもDVおやじとかいますからイイトコロばっかり見てちゃぁダメです。
あなたも逆に自分の悪いところばっかり見てちゃぁダメです。
まず見つめるべきはその自分自身の心の言動から。
あなたの心が口にしていた言葉はあなたに何を生み出しましたか?
それは自分自身をDISっておとしめた、自分なんてつまらん人間だと悪く評価しただけ。あなたを暗示にかけただけです。それは思い込み。
人はフェイク情報でも陰謀論でも詐欺でもそう思い込まされれば真実だと思いこんでしまうもの。あなたは一時的にそう思えてしまっただけです。芸能界だって華々しい世界と思っておられるようですが、ズルく立ち回ったり、根回ししないと人気者にはなれません。作られた流行がほとんどの世界です。それをきれいだと思うのも思い込みです。心の中のワード、導きで自分を小さくすることもあれば、逆にあなたがいいと思う人のような大きな活躍をさせることもできるのです。

あなたが悪く思う前はあなたは別にわるくペイントされません。🖌✖
自分の本来のきよらかさをキープするのも悪く塗るのも自分。
確かに世の中、持っている人は持っているものですが、🍚ご飯でも🍞パンでも一回に食べられる量はせいぜい3杯、4枚程度でしょう。豚骨ラーメンだってせいぜい替え玉4玉ぐらいなもんです。🍜(多いぞ)
大事なことはラーメンでたとえるなら同じ700円出すにしてもどんなレベル、どんなクオリティを提供してくれるかが大事であるように、あなたのやることがあなた自身にヒットするかどうか。「そこ」なのです。
今日の自分の活動のことです。同じ24時間。選択肢は無限にあるのです。心のハンドルをどっちに向けるかもあなた次第。あなたが選べるのです。あれも欲しい、これも欲しいよりアタシがガツンと来るものの為にひたすら突き進むべきなのです。そのためにも今からあなたがその心を、その負のお池にハマってずっと浸り続けていることを選択しないことです。その心の負の行為、負の言動があなたを今の負の状態にとどめているのです。それでは替え玉がくるまえに人生、のびてしまいます。
あなたが自分で自分をわるいことばを口にしたり、心で念じているから心が停滞してしまうのです。
時には手を伸ばして、目の前のすりごまや、高菜やニンニクや酢に手を伸ばすことも大切なのです。🍜ラーメンかい。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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