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苦しい、死にたい、不安です

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19歳で病気で倒れてからうつになり、バイトを転々とし、就職もできず、数年前に始めたフリーランスの仕事も頓挫し始めました。
毎日希死念慮に襲われます。
八方塞がりなのに生きている理由はあるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「しにたい」というこころの動きの原因を探る

こんにちは。死にたい地獄から這い上がって今日も今から田舎寺の終わりなき葉っぱ掃除に向かう永遠の庭掃除係の丹下覚元と申します。
「どうして俺は死にたい」のか。
どうして死にたい気持になるのか。
深呼吸をして「そこ」を自ら問いかけてみましょう。
そこを具体的にすると活路は開けます。
その「死にたい」という言葉でしかうまく表現できない、そのもどかしい気持ち。
それはもう少し見つめていくと、死にたい、その理由が見えてくるものです。
なにもなければ生まれたての赤ちゃんだって「死にたいほぎゃー」なんて言うわけがないのです。生命は俺自身、自分自身が行きたい死にたいに関わらず呼吸を繰り返して心臓ポンプ君が全身に血液を送ってくれているということはあなたの意志とは無関係に生命としていきたい、生きよう、よりよくなろうとしているものなのです。
必ずここ最近、およびちょっと前、過去において死にたくなるような原因があったはずです。そして、そのことを思い返して死にたくなっているのが今だということ。
不思議だと思いませんか?
過去は過ぎて、そのことは終わっている。
未来はまだ実際にどうなるかわからない。呼吸しているのはいつも今、ここ、この自己なのに、どうして人は未来や過去を思い起こしては「今新たに」悪く自分をDISって死にたくなる生き方をするのか?しかも今日のたった今はとれたて新鮮、産地直送、たった今来たばっかりの今なのに、その新鮮な今という時間を台無しにしてまで暗いことを考えちまうのって、不思議じゃない?
どんなことにも原因があっても今の結果がある。
笑顔になれる人は笑顔になれる何かがある。
苦しいことがある時、苦しいことにつぶされる人はそれにつぶされる。何とか持ちこたえられる人は耐える方法を知っている。私もシニテー時は何度もありましたが仏教のおかげで顔のツラの厚さが半紙ぐらいの薄さだったのがテツコ(仮名)ソノコ(仮名)もビックリなブロック塀ぐらいの厚さになれました。流行りの鬼滅の刃じゃありませんが、強くなれる理由を知ったからです。強くなれる方法あります。そしてその強くなれる方法が仏教。仏教といっても沢山あります。仏教を学ぶのではないんです。あんたが自分史上、最高、最強になれる方法を仏教を通して学ぶ。その志を持ってください。知っているか知らないかで生きる死ぬの分かれ道にもなることはあるのです。✨

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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