hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

周りとのズレを感じる

回答数回答 1
有り難し有り難し 4

私は、自分が変なのではないかという考えに長年囚われています。
幼少期から、自分の考え方や行動が周りと少し違うという事には気づいていました。それゆえ意識して周囲と同調するように装い、なんとか人間関係を築くことはできてましたが、それでも孤立しがちでありました。
そして成長するにつれ、周囲とのズレが違和感として大きくなっていきました。まるで他の人はスクリーンに映し出された映像で、声もスピーカーから流れているような、生きたものと実感できないような感覚を覚えました。
幸か不幸か、頭は良かったので、私は傍目には順調に人生を進んできました。
しかし私はいくら難しい問題が解けようとも、普通の人がいとも簡単にできることがどうしてもできないのです。
どうやって親友ができるのか、恋人ができるのか、娯楽を楽しめるのか、分からないのです。
私は、家族も含めて浅い人間関係しか持っていません。友達とは休日一緒に遊ぶようなことはしません。恋人を作ろうとしても、何をしたらいいのか分からず、結局体だけの関係になってしまいます。
周りの人が夢中になっていることに全く興味を持てません。
発達障害や統合失調症を疑いましたが、そうではありませんでした。
ただ単純に『変な人』なのです。よく言えばミステリアスな人。
けれど、その『変』なせいで、人間関係を深められないのです。少しでも私の心の内を見せようとすると、皆逃げていくのです。 
いつかきっと私を好きになってくれる人が現れて、幸せというものが得られるのだろう、と昔は漠然と考えていました。
けれどもやはり周りとのズレを感じる日々。焦り、なんとか努力しようとするも、その努力がチグハグでずれている。
この先1人でも稼いでいける自信はある。しかし何のために?誰のために?
自分の生きている実感が乏しい。

要点を得ない相談で申し訳ありません。ただ、私は普通になりたいのです。周りができることを普通にできるようになりたいのです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

尺度を変えてみますか?

 世間が愛(≒憎)という感情で動いて、うまくいったりいかなかったりする。
 仏教では、愛憎は欲と怒りの感情で、悪いもので、どちらも減らしてなくす方が良いと言います。
 では、仏教の理想の在家生活は? 恩と慈悲でやると、感情に揺さぶられること少なく、良いものなので無理はなく、生きる意味もあると思います。
 親や先生には育て教えてもらった恩を感じつつ、返し切るのは無理なので少しでも報いる気持で生きる。親には親孝行ややがて世話をこちらがするようになります。先生には、自分が成長すれば報いることになります。
 友人、仕事仲間、伴侶、子供など対等か自分が支えるべき相手に対しては、それぞれに対してふさわしいあり方で慈悲の気持ちで接する。特に異性の友人に対する態度と伴侶に対する態度には、同じ慈悲の気持ちでも接し方が異なります。相手に応じて、こちらもいくつもの役割(仮面)を使い分けることになります。生きること自体が、そういう、人と接して人も自分も少し成長するように頑張る仕事だと考えて良いかもしれません。
 人間の感情にどっぷり浸かったり溺れたりする必要はありません。釈尊の時代の仏教在家信者たちは、表面的にそれぞれの役割を使い分けながら生きていました。たとえば、二人とも性にも在家生活にも興味ないけど親が望むので仮面夫婦になって、両方の親の面倒を見て、子どもは見せてあげられないけど、親が亡くなったら二人ともサッサと出家して悟りを開いたり……
 世間は愛憎で動いていて、それはそれで大変です。それが標準というわけではありません。愛憎の薄い人は、無理にそちらになびかず、しかし無基準ではいろいろ困りますので、愛憎の代わりに恩と慈悲を基準に生きればよいのではないでしょうか。傍から見れば、感情はドライで言動は誠実という感じに見える生き方だと思います。
 パーリ語で『シガーラ教戒経』漢訳で『六方礼経』というお経でそういう生き方について説いています。スマナサーラ長老の解説が秀逸だと思います。『成功する生き方』(角川文庫)で出ています。ご参考までに。

{{count}}
有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
このお坊さんを応援する

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ