普通という物が怖い
世間や社会の人達はどうも自分が「普通」の模範だと信じて疑わない人や、無意識に自分が普通だと思い込んでる人が多すぎる気がします。そんな普通の人達は今日も「普通から外れた人」を叩いたり批判したり、時に普通に戻ろうとする人を締め出したりしてます。
俺はどうもその普通ではないようで、その普通に近づければ良いなと思いつつも、同時に「仮にアレの輪に入れたとして、今度は俺が普通じゃないからと差別しないか、そもそもそんな心配しなくても問題無く俺を輪に入れようとしないのではないか」と考えてしまいます。そして「普通の人達は普通ではないからと他人を差別し、それを正義だと信じている。その差別の中に俺は含まれているのではないか」と恐怖してしまいます。
どうすれば普通という大多数の正義を認めつつ、自分はこう考えていると主張できる人間になれるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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保守的なんだね、今は。
こんばんは。「このまま社会へ出たくない」の方ですね。その後どうお過ごしでしたか?若いうちの1人海外旅行、いいと思いますよ。ちょうど春休みに入りますし。
さて、「自分が普通の模範だと信じて疑わない」うん、それは仏教的な人間理解と合致すると思いますよ。だって我々、自分の目で見て、自分の耳で聞いたことから、世の中を判断していますもの。
それを踏まえて、「これは自分にとっての普通であって、他人にとっての普通ではない」という一歩引いた目を持てるようになることで、すごく楽になるんです。つまり他者意識を持つということね。この辺は、国語の授業で出たことあるかも知れないけれど、出口汪さんの「論理的に…」シリーズの本を読んでみるといいです。そう、実は国語という科目の目的は、「他者意識を育て、社会の中で生きる術を身に付ける」ことなのだよ。
ところがね、息子に関する話などを聞いていると、あなたの感じている事も理解できる。「普通」という範囲が凄く狭いの。高校の先生をしている友達に訊いたら「保守的だよ、僕らの頃よりもずっと」と言っていた。これはね、機械が生活に食い込んでいるからじゃないかな、と思っている。一見自由に表現できるようになった、可能性が広がったように見えるけれど、実はネットに載る物事だけが広がっている。バランス悪い。
だから、言ってあげたいことは。
「普遍的な普通の姿」というものはない。それを知ると、普通を追求することがバカバカしくなり、普通であることに拘る必要がなくなる。ちょっとだけ…日本語とか…共有していれば、実は充分。「アレの輪」に入らなくたって、君は生きているのでしょう?
だから「普通」って、実際には仲間意識のことだと思う。特定のメンバーだけに共通することを探し出して、「俺たち普通だもんね」を言うためのもの。それはね、自立していないからです。「俺たち」に認められないと立てないから。これ、結構日本特有らしいですよ。
ということで、改めて「1人海外、行ってみなよ」と言いたい。どうせ人間は自立と言いながらも帰属しないと生きていけないんだから、いろんな集団の中、いろんな社会の中に身を置いてきた経験のある方が、早く楽になれると思うよ。
質問者からのお礼
ありがとうございます。海外旅行にいける資金はありませんが、もしできたら一考してみます。