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亡くなった妻に夢で逢いうことができました

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 妻が亡くなって3か月になります。毎日が本当につらいです。先日、妻が夢に出てきてくれました。いつもの妻でした。体のことを心配する妻。私は妻に走り寄って抱きしめました。そして泣きながら妻に何か言おうとしました。そこで目が覚めましたが、妻の布団には妻はいませんでした。夜中に妻の名前を泣きながら呼びました。
 妻とともにいた35年の間、妻が喜んでくれることをするのが私の生きがいでした。本当に幸せでした。妻がいなくてもう生きる意味がありません。あの世で妻にまた会えるのなら早く会いたいです。妻に会ってまたたわいのない話をしたり、手を取り合って妻の好きなものを食べたりしたいです。今度は妻をもっと大事にしたいです。妻に会いたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

報恩謝徳 菩提心をおこし、慈愛の「法体」として共に生きる。

人は愛する伴侶を亡くしますと、心がどこへ行ってよいやらわかりません。
さびしさ、孤独、今まで一緒にいてくれたパートナーがいなくなる悲しさ。
喪失感のつらさははかり知れませんね。

ですが、奥様との出会いを短く100ページの物語にするのであれば100ページ目だけが奥様との出会いではなかったはずです。してくださったこと、支えてくださったこと、元気づけてくださったこと、言わずとも苦労を引き受けてくださったこと、限りない恩があり、愛があふれているはずです。今もその物語は続いています。
人は恩恵・恩愛によってこの世に生を受け、存在をしています。享受。
月であっても太陽の光を浴びて、道を照らし、世界の人を美しいと思わせるはたらきがあります。
動物であっても頂いた恩に報いようとするこころがあります。
人はこの世に生を受け無数の恩恵を授かっているものです。
ましてやご夫妻。
奥様が数十年にわたりあなたを支えてくださったことの数々は数え切れないものでしょう。だからこそ、あなたが授かった愛、慈悲、たすけ、恵み、支え、見守りを「今後」どうされるべきでしょうか。導き。
頂いただけではその愛や慈悲心の向かい先がとどまってしまいます。それこそ奥様の本当の哀しい死になってしまいます。
人がお墓参りをすることや、供養をすることの大切な心の向かわせ先、導き先は、報恩謝徳です。
報恩謝徳とは、受けた恵みや恩・愛に対して報いようと、感謝の気持を持つこと。 「恩に報ひ徳に謝す」精神があってこそ、人はお互いが慈悲や恩愛の生命体として永続するのです。奥様とこの人生の中でこれからも共鳴し合っていく方法は、この報恩謝徳の精神でございます。

毎日、奥様を思い出すたびに、かつて支えてくださったことを思い出してみてください。
そこに思いを馳せ、今も見守ってくださる奥様を自身の導きの師として敬ってください。人が戒名を授かるということは仏弟子になられること。奥様は仏様の血縁として今もあなたを今後も悩みや苦しみが無いように見守ってくださっています。そこで、ぜひ報恩の菩提心を発願して、頂いた慈恩に報いようと志すのです。
それが四弘誓願文。
広く世の人々をたすけ、自身の煩悩や悲しみの心も断ち、
仏法を学び自己を開発し、仏道を成就せんとの報恩の誓願なのです。
そうして建てたのがお墓であり、塔婆です。血を通わせてあげてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがたいお言葉、ありがとうございます。まだ妻を思い毎日泣いています。妻がそこにいるようで声をかけています。空を見ても星を見ても妻を思い出します。妻がいない世界が信じられません。これが夢で、目を覚ましたら妻にまた会えるのではないかと思うことがあります。また、妻と手をとっていろいろなことをしたい。妻が喜ぶことをいっぱいしてやりたい。弱い人間です。妻に会いたいです。本当にありがとうございました。

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