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断捨離で後悔しています

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有り難し有り難し 28

後悔を払拭するにはどうしたらいいのでしょうか。
今の私の場合、数年前の断捨離で後悔しています。
今考えれば、捨てるなんて正気じゃないと思うような思い出の品なども捨ててしまいました。
学ぶことや次に生かすことはできますが、後悔した事柄自体はどうしようもないです。
教訓にしても、失ったものは戻ってきません。
暗い気持ちのまま生きていくしかないのでしょうか。
事柄によっては学ぶこと生かすことすらできないこともあります。
しかしこれからの人生後悔なく生きるのはきっと難しいです。
どう解決すればいいのでしょうか。
考えないようにしたり、受け入れたりするだけでなく、納得する答えを見つけて晴れやかな気持ちになりたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大切なものを

拝読させて頂きました。
あなたのお気持ちとてもよくわかります。本当に残念だったと、何故あんなこと後先考えずにしてしまったんだろうと思ってしまいますよね。あなたのお気持ちを心よりお察しします。

ものは失ってしまうことはあるでしょうけれども、あなたの頭の中には今でも様々な思い出が大切に保管されていますよね。

それはあなたが亡くなった後でもあなたの中に大切に保管され続けるものです.そしてあなたは様々なつながりの中で生き抜いていきますからずっと残っていくものです。

あなたがこれからも様々なつながりやものごとを一つ一つ大切になさり充実した毎日を皆さんと一緒に生き抜いていかれますようにと祈ってます。

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個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

もともと何もなしで生まれてきていずれ何も持たずに死んでいく

ストレートで申し訳ありませんが、人生の真実です。
もちろん大切なものもあったでしょうが、大切な記憶はDNAに刻まれているものです。
「もの持たぬ袂や軽し夕涼み」
昔の優れた禅僧、飯田トウ隠老師の道歌です。
「人は何も所有することはできない。水一滴、米一粒も作り出すことはできない。」
福岡正信師の言葉です。
人間にはもともと自分のものはない、なかった、と心底わきまえることは損ないがなくなる大切な心の処し方です。それこそが断捨離の本当のありようです。

断捨離とは一度自分が知っている言葉を忘れてみてください。
自分が今ここにいる。
自分がそこで息をしている。
自分の意志とは無関係に、こうして。
そこで一切のことが立たれている。過去のことも、前のことも。
捨てようとしなくてもおのずから捨てられて行っている。捨てるということは自分の持ち物ない事由で身軽な心境です。
何をしようとせずとも離れていっている。
離れているとは執着のない様子。
身軽な様子。
一切の心の執着もシバラレも所有もない様子。
今自分に髪の毛が生えていたのにもかかわらず、後ろ髪のことなど忘れていたでしょう。
持ちながら持っていることをも忘れている。
過去にどんな経験があってもそれを経験したのだけれどもそのことから離れた、天然の断捨離の生活をしているというのが、我々の法身(ほっしん)。自己の真実の姿です。
その自分の真実の姿、何をしようとせずとも天然に断捨離されている何も持たず、どこにもとどまらず、自由で開放され続けた心をこそGET、獲得することこそが仏教の教え、人生の大真実、安心して死んでいける心を獲得するということ。決定・決着です。
損なわれた、と思う人は損ないの心情に支配される。
たとえ恋人関係でも別れたことで自由になれる、安楽になれるということがあるものでしょう。
片方から見れば損なわれでもそういうものに縛られずに生きている人たちは本当は自由な境涯なのです。
戦地を駆け巡った武将、猛者が君主からもらった賜物を落としそうになった時、死ぬほど恐れて「自分は戦では何も恐れない強靭な心だったのにもの一つでここまで心が乱れるとは情けない」と、その自分の心の弱さを恥じたという話があります。
自分の手を見てください。
今、何をつかんでいるか。
どれほど自由にものも持たずに自由であるかどうか。
そこに本当の宝がある。✨

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。
あれから元気になったりまた落ち込んだりしながら、毎日考えて生きてきました。
捨ててしまったものは思い出として大切にし、これを教訓に同じ過ちを繰り返さないよう、今ある大切なものを大事にしていきたいと思います。
お言葉をいただけて温かい気持ちになりました。ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ