指導無視って言葉がもやもやします。
中学校で働いてもう5年になります。今の学校は3年目です。先生同士で話す時にたびたび出てくる「指導無視」という言葉にもやもやします。
例えば、眉を扱ってはならないという校則があるにも関わらず何度注意しても眉を剃ってくる人、授業中何度起こしても寝る人などが議題に上がると、「指導無視として別室指導にしよう」「指導無視は絶対に無くさねばならない、全員で強く注意していきましょう」という言葉が必ず出てきます。
確かに指導無視を放っておくと、好き勝手にする人も出てきて、集団生活が脅かされるリスクも理解しております。
しかし、何度も同じ過ちをする人は、最初の指導に納得していなかったり、先生には上手く言えない秘めた思いがあったりしてやめられない場合が多く存在していると思っています。
例えば、居眠りなら夜に(わけがあって)寝れていなかったり、寝ても寝ても眠たかったりする人もいます。
眉を剃る人は、自分の顔にコンプレックスがあり、そうしなければ人前に出たくないという人もいます。
勿論それだけでなく、反抗心やちょっと冒険してみたいという思いかもしれませんが……
多感な時期で色んなことに悩み、心が揺れる今だからこそ、度重なる違反行動には、生徒の心と向き合って何度も話をしていく中で、少しずつ改善されていくほうが、今後の人生にとっても良いと思うのです。
しかし、実際、何度も同じ違反をする生徒は、指導無視として、「先生の言うことを聞かないということが問題だ」「これ以上指導を無視するなら、教室にはいれられない、別室に行ってもらう」というように指導されています。
こんな事でもやもやしているのは私だけかもしれません。しかし、気になって学校にいるのがしんどいのです。
「指導無視」って言葉は教育に必要でしょうか。その行動をする背景を気にするより先に、「指導を無視する人は問題だ」という考え方が基準なのは生徒を窮屈にさせないでしょうか。
答えて頂ければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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あなたの志と現実のバランスを見極める
こんにちは。
中学校の先生はお忙しいことでしょう。
先ずは、どうぞお体お大事にお過ごしください。
確かに、「指導無視」という言葉の響きは一方的ですね。
このお話を聞いて、思い出すのは平成2年に起きた高校(私の地元にほど近い)の校門圧死事件です。朝の遅刻を徹底指導するために、定刻に問答無用で先生が重たい鉄製の校門を閉めたことで女生徒が挟まれ亡くなった事件です。今でも、その前を通りかかるたびに、その事件のことを思い出します。
「指導無視」を放置すると、規律が守れなくなる。あなたが指摘しているように、「好き勝手にする人も出てきて、集団生活が脅かされるリスク」はあるでしょう。しかし、あまりに一方的になるとそれは窮屈でものも言えない雰囲気を作り出すということの「リスク」もあるはずです。
「多感な時期で色んなことに悩み、心が揺れる」「生徒の心と向き合って何度も話をしていく中で、少しずつ改善されていくほうが、今後の人生にとっても良い」というのは誠にその通りです。あなたのような心細やかな先生がいるだけで、生徒さんは幸せです。先生は規律そのものでもあると同時に、身近な心を開ける人としてあることを望まれているはずですから。
ただ、この「生徒の心と向き合って何度も話をしていく」ということを、あなたはどれだけ現実的に引き受けられるでしょうか。あなたは、現在「もやもやしている」「気になって学校にいるのがしんどい」と書いています。
「指導無視」と「心と向き合」うということのバランスを、もし自分で率先して引き受けられる心の余裕がない場合は、心に鞭打ってこの問題に向き合うことは避けた方が宜しいのではないでしょうか。
恐らく、この「心と向き合」うということの実現には、学校全体のこととして先生、学校カウンセラーの先生等に提案していく必要性が生じるのではと想像します。その際、先づ隗より始めよになります。言い出した人が仕切るべしにもなるでしょう。
その心の準備ができていればよし。
もし、そうでないならばご自身のコンディションを優先し、将来的に実現することを今は期すれば宜しいと思います。あなたの志と現実のバランスを見極める、ということです。
専門外のことで参考になるかは分かりませんが、一言述べました。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
誰にも言えず苦しくなっていたので、聞いていただいただけで、とても心が軽くなりました。
志と現実のバランスを考えていきます。
ありがとうございました。