神様と仏様
初めまして。ずっと両親と暮らしてましたが、私が結婚してから、両親は引越しをして私が離婚して実家に戻ったら近所に公園がある事を知りました。
子供が大嫌いな私は子供の奇声や「ボール遊び禁止」とわざわざ書いている公園でのボールの音が怖くて聴覚過敏と鬱病になりました。
それに自閉症スペクトラムというのが判り、今は精神科と訪問看護のお世話になっています。
子供もいなかったので(例え居たとしても母性はないので相手に渡してたと思います)スッキリと別れました。
仕事も何回も転職しました。人間関係でばかりです。
心から話せる友人が数人居てるだけです。
付き合ってた人は3年前に先天性脳疾患で亡くなってしまいました。
母親は私が子供の頃から過干渉ということもあり大阪で通ってた精神科の先生に「お母さんから離れなさい」と言われました。子供の頃から親や周りの顔色ばかり見て暮らしていました。
誰かが怒ってたら(私のせい?)とビクビクしてました。
今は母方の祖父母の家で一人暮らししています。もう祖父母は他界しましたので。
今は私が今後親がいなくなっても自立できるようにと友人が大阪で起業するのでメンバーに入れると言ってくれてます。その子は全部事情は知っています。
子供の頃から怒られたり殴られたりした記憶しかないので、何をするにも自信はないです。
友達は生命保険の会社なので、「簡単な資格試験は取ってもらわなアカンけど」と言われました。
そういうのは頭の良い人が受かるので私のようなバカはできないと言いました。
両親が最期の時に私が1人でも暮らしていけると安心させたいですが高校時代の偏差値が30前後だった私には自信がありません。
好きな事なら出来ますが数学どころか算数すら出来ません。
父親が以前「ワシが逝く時はお前を殺してから逝く」と言った言葉が残ります。
その前に自分で自分を始末しないといけないんだと思います。
両親が、たかが私がこの世に居なくなるために手を染めさせたら十王様達に両親が責められてしまうのだろうと思うと・・・。
聴覚過敏で静かな田舎からまた騒がしい大阪で苦しむのが怖くてたまりません。
自分が誰かの支えにすらならないのに、この世で寿命まで生きなくてはならないのは修行なのでしょうか?
生きる意味がある人とない人との区別はないのでしようか?
元々住んでたのは大阪ですが鬱病・パニック障害・自閉症スペクトラム(光・聴覚過敏)・PTSD・HSPで母方の実家の高知県で一人暮らしをしています。一人っ子です。 子供の頃は自家中毒で入院した事もあります。 現在は障害者年金を頂いて生活をしています。 腹が立つと誰かれなく喧嘩してしまいます。 大阪でも精神科に通っていました。 私が結婚してる間に両親が今の家に引越してしまいました。バツイチ子無しで実家に戻ってきたのでその時公園に気付きました。 実家で病気で寝込んでても静かにしてたくてもボール禁止の公園で壁に打ちまくり、奇声を上げ親は子供を見ていません。 夜中は夜中で高校生や成人に近いガキが騒ぐ公園です。 そして誰かが警察に通報します。 絵を描いていましたが今年の3月に彼氏を亡くしてしまい、何もする気がなくなりました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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自灯明 法灯明
月子さま
神様も仏様も、どのようにすれば、善い方向へと向かうことができるのかという道のりをお示しされておられますが、それを実践して、実際に歩き進めていくのは自分自身の問題となります。仏教では、自灯明、法灯明と申します。
生きることやその他も含めて、意味や価値、理由などは、因縁(原因と条件)次第なるものであり、また、厳密には、その意味や価値、理由は他の誰とも全同することはありません。
貴女さまと私でも一つのモノ・コトにおいてさえ、意味や価値、理由が完全に一致することが無いのであります。
このことは以前の拙回答ともかぶりますが、例えば、もともと私たちは、一つのモノ・コトを捉えていても、誰もが同じようにそのモノ・コト(の意味や価値や理由も含めて)を捉えているとは限らないのであります。
一つの物事でも、立場に応じて見方、捉え方が変わる例えとして、仏教では「一水四見」という言葉がございます。
私たち人間にとっては「水」であっても、天人にとっては宝石、魚にとっては住処、餓鬼にとっては火と、それぞれで捉え方が異なってしまっているという例えです。
更に、仏教における唯識思想から考えれば、この世界の顕れの捉え方の複雑さについて、より知れることになります。
一つのモノを見ても、実は、それぞれ、はるか昔の過去世からの心(の阿頼耶識)に薫習された習気(薫りが染み付いたようにそのモノコトを捉える習性)が、そのモノを捉えているという複雑な構造を知ることができます。
要は、誰一人として、誰かと同じように、そのモノ・コト(の意味や価値や理由も含めて)を捉えていることなど、もともとあり得ないということでもあります。
阿頼耶識のありようが、当然に皆それぞれ指紋の如くに異なっているからであります。また関心があれば、是非、唯識思想について学ばれて下さい。
ですから、そう捉えている人それぞれでそれぞれにおける意味や価値、理由であり、また、それも色々な因縁次第において変わりゆく無常なるものとなります。
ですから、全く無いわけではないし、変えていけないわけでもありません。善き因縁に努めれば、もちろん、善き意味や価値、理由も見出し得るということにもなります。
仏教は、そのような善き因縁に資していく教えであります。
是非、仏教を学んで頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
とても遅くなりましたが今ご返信に気付きました。
すみません。
そしてこんな私の話に親身になってお答え頂きありがとうございます。
私は仏教大学に行ったわけでもなくただ歴史好きな事もあり、神様(神道・キリスト教)や仏教(色んな宗派)やいわゆる新興宗教などを調べたりするのが好きです。
神様・仏様のお言葉が心に刺さる事もあります。
色んな宗派がありますがお釈迦様や神様からお言葉を預かったキリスト様がお伝えなさったお言葉がよくわからなくなります。
仏教では輪廻転生はないと何かの本で見た記憶があるのですが宗派によるのでしょうか?
「唯識思想」という言葉を初めて耳にしました。
また勉強していきたいと思います。
追記
あっ間違ってました
輪廻転生ありましたが「霊」というのがないと聞いた事があります・・・でした
まっ生きるも地獄、死んでも地獄の私には関係ないですが