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霊と話せると言う人との付き合い方

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以前にも相談させていただきました。

5年前に親友を自殺で亡くし、今も毎日思い出し、祈りますが、もう思い悩むことはありません。
私のせいで死なせたかもしれないし、私のお陰で5年前までは生きていられたのかもしれない。どちらが真実か(もしくはどちらも真実か)は、亡くなった親友にしか分からないことなので、私は「もしまた彼女に会えたときに好きになってもらえる私でいよう」と前向きに生きています。

前回も「死んだ人と話せると言う人が理解できない」という相談をさせていただきました。

その際に、言う方は言うだけで責任はないのでスルーしたらいい。親友が私に伝えたいことがあるときは直接私に伝えに来てくれるという回答をいただき、その言葉を信じて過ごしていました。

しかし件の友人は未だに「親友さんと話したよ」「もう成仏するから安心してねって言ってたよ」「ずっと三十日月のそばにいたけど声が届かなくて悲しかったって言ってたよ」「私は霊能力を身に付けるヒーリング(?)を受けたから信じて」「三十日月が私の言葉を信じてくれないから、親友さんが悲しんでるよ」「一番可哀想なのは親友さんだよ」と伝えてきます。
友人をやめて連絡手段を絶っても、いろんな方法を使ってコンタクトを取ってきて、聞いてもいないのに私の親友の今現在の話をします。

私はもう誰にも触れられたくありません。
それは友人にもきちんと伝えましたし、私は霊が視えないから、そういう話は聞きたくないともはっきり伝えました。
でもやめてくれません。

スルーすればいいんだと、頭では分かっています。
もし親友が私に伝えたいことがあるなら、直接会いに来てくれることも信じています。

でも「一番可哀想なのは親友さんだよ」という言葉が予想外に私を傷付け、悩ませています。

私が霊と話せると言う人を信じないせいで、親友は悲しんでるのか?もし本当にそうなら私は悪いことをしているのかもしれない…と思い悩んでいます。

霊と話せると言う人が、心の底から「自分は霊と話せる」と信じていることも理解しています。
本気で信じているからこそ、応対に困っています。

私が聞いてもいない、今現在の親友のことを(最近成仏したとは言っていましたが)、私の不安を煽るように伝えてくる友人との付き合い方を教えてください。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

友人や親友とはあなたを幸せに導く人。そうでない人が友人? 

人間は感覚のセンサーの差異はあっても霊が見えるとかそういう特殊能力はそれを生業にしている人もいますので、あまりズバズバ言いたくはありませんがはい、そういうことです。
「👿私はお前にはない特殊な能力がある👹」的な上から目線な態度で自称霊能力者と称して人を騙そうとする人にはそれを利用した別の「狙い」がある人たち。
あなたは引っかかるオーラが出てしまっているのでしょう。
相手にとっては騙せる、騙しやすいと思われているのでしょう。今後そういう脇の甘さを持たないこと。そういうことを言う人間とは縁を切ること。騙す相手は騙せない相手にはそういうことを言いません。友人とか言いながらありもしないようなことをブイブイ言ってくる人は友人ではなく友人面したピー(自主BAN)です。私であればそういう人間とはかかわりませんし、徹底的に論破します。僧侶の世界でも霊が見えるとうそぶいていた人間をフルボッコにしたことがありますが「はい、嘘です。」と自供していました。
たとえて申し上げれば世の中の詐欺商法とは、詐欺と思わせないようにするから詐欺なのです。世の中には八百万の詐欺があります。それに騙されないようになるためには詐欺師よりも一枚上手になるよりほかありません。詐欺師は悪意ですから、悪意に騙されたらこちらが餌食になるだけです。騙せる人は騙せる心理的な隙がある。だから、しつこくかかわってくる。あと一歩、あと一歩で相手を落とせる、と狙ってくる。あなたを意のままに心理操作しようとしているのです。シラフな感性の人であればそういうことを口にもしませんよ?「自分には特殊な力があるぞ」と思わせて、別の狙いを成し遂げようとしているのでしょう。
唯一そういうことが許されるとしたら、方便。
そういうものを激しく信じている人たちの心をより安楽で健全な方向へ導くるために「言葉の代用」として用いる方便の程度です。心の道理、ものの道理を別の言葉で説明するアンパンマンとバイキンマンで正義と悪を説明したり、妖怪ウォッチのような事前説明ありの人間の心理作用の説明の方便程度でしょう。ただ、そういうものを生業として、悪意で真実ならざる情報を用いて人を不安に導いたり、高額な金銭を要求したり、自分は特殊な力があると思い込ませようとするのはカルトの手法です。悪友、悪縁は身を滅ぼします。関わらないに越したことはありません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

拠り所を持つこと

こんにちは。

一年前のご質問では、「スルーしたらいい」というアドバイスを受けて実践していたけれど、「霊と話せると言う」「友人」に「一番可哀想なのは親友さんだよ」という言葉が「予想外に私を傷付け、悩ませています」という状況なのですね。

私は、以下の二点でアドバイスをします。

1、仏教的に専門的な立場、修養のない人の言葉を受け取らない。

その「友人」とは、何宗かの正式な僧侶ですか。
そもそも仏教は「霊」という、死後も不滅な存在を前提にしません。
「霊と話せると言う」こと自体、仏教外の気配が感じられます。
その仏教に似せた何かの専門を自称する人が、仏教の世界観のみで語られる「成仏」をもっともらしく語るという時点で既に怪しいです。

2、自分の拠り所を持つこと

あなたは、その「霊」云々の話を否定しようとしているけれど、否定しきれず「傷付」き悩んでいる。それは、あなた自身に死後の故人に対する明確な位置づけが出来ていなからです。例えるなら、根の浅い木が少し強い風雨に遭えば簡単に倒れるが如くです。

仏教は各宗派で南無、つまり拠り所にする対象、仏様がいます。
その仏様の世界観の一例としては、亡き故人は阿弥陀如来様と一緒になって手を合わせる私とともに生きていてくれる、と捉えます。こういう捉え方をする「人」にとって、「霊」云々はアウトオブ眼中です。傷ついたり、悩んだりする余地は全くありません。

つまり、あなたがご縁のある仏教とご縁を結べば、今回の問題は自ずと氷解します。

一方、あなたが無宗教の立場でこれを考えていくならば、ご自身での死後の世界、故人についての位置づけを創造、もしくは模索する必要があります。

いずれを選択するかはおまかせします。

追記
ご返信ありがとうございました。
お役に立てれば何よりです。
また、ご質問あればお寄せください。

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おきもち

浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布教研究専従職員 元龍谷大学講師 元篤志面接委員(法務省管轄) 真宗学修士、心理学学士 Fmみっきい(地元ラジオ局)出演中 趣味:サックス 2019年末頃から回答しています
応談できる時間帯は、その日によって違いますのでお確かめ下さい。 月曜日〜金曜日(祝日除く)13時〜21時 土曜、日曜、祝日 18時〜21時 お盆(8月1日〜15日)、お彼岸は対応できません。

質問者からのお礼

早々のご回答、本当にありがとうございます。

目から鱗でした。
確かに仏教に関してはその友人は何も知識がありません。
最近謳われるようになった、「宇宙エネルギーによるヒーリング」といった類のものを信じているだけです。
それ自体を否定することはできませんでしたが、それと「成仏」という仏教的な考え方を全く結びつける必要はないという言葉にハッとさせられました。

私はある事情から、生涯無宗教と決めていたのですが、悠水さまのお言葉で、少しその考えを改めようかと考えました。
今までの信念を捨てるかどうかは今すぐには決められませんが、少し仏教について学んでみようと思います。

とにかく、まずは「仏教的に専門的な立場、修養のない人の言葉を受け取らない。」ということから心がけていこうと思います。

本当にありがとうございました。

覚元さま、厳しくも強いお言葉、本当にありがとうございます。

友人は(便宜上、今はそう呼びます)、悪意を持って私に伝えてきているわけでないことは知っています。
友人は心の病を抱えていて、健康な人には見えないものが見えたり聞こえたりしている可能性はありますし(幻視・幻聴)、本人は心の底から「霊と話せる」と思っているのです。

だから詐欺師のような悪意はないのですが、別の狙いがあることは私も知っていました。
友人は金品などを求めているのではなく、私の心を手に入れようとしているのです。
私に好かれたい思いと、その一方で、同程度の社会的地位にいる私より優位に立っていると示したい、自分の方が上だと知らしめたい、その気持ちから、事あるごとに「親友さんと話したよ」「私には親友さんと話す能力があるんだよ」と連絡を送ってくるのです。

でも覚元さまのお言葉の一番上にある「友人とはあなたを幸せに導く人」という言葉に全てがこもっていると感じました。
例え善意からの行為でも、私を不幸にするものからは離れていい、離れなくてはいけない、と心を引き締め直しました。

私自身、過去にも何度も騙されてきたことがあるので、脇が甘いという自覚はありました。
しかし悪意に対しても善意に対しても、芯のある対応をすべきだと覚元さまのお言葉で気付かせてもらえました。

身を滅ぼす前に、悪友とは縁を切ります。
本当にありがとうございました。

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