妹の初盆。
お盆の忙しい時に毎週毎週同じ事ばかりすいません。
今日も亡くなった妹についてです。
妹は今年の4月に亡くなったので、今月が初盆です。
精霊棚構えて、位牌置いて、葬竹のなんか飾ってもらって、施餓鬼の紙とか飾ってもらって、玄関にも何か旗飾って、燈籠も準備して、お盆にはお坊さんに来てもらい、その後も、お寺に行ったり、最後とぼしあげで終わるようですが、そもそもこんなことして妹の為になるのか、まだ生きてたらこんなことしなくて良いのにとか、こんなことをこんなに早くやるはめになるとはとか頭ぐちゃぐちゃになりながら準備してますが、辛いだけです。
時間は経っても、まだ妹がいるのでは、もし生きてたらとか、やはりあの日助けることが出来てたはずなのに、自分のせいで死なせてしまった罪悪感があります。
妹が亡くなった日から毎日同じことを思ってます。1日も休まることがないです。
自分のせい、自分のせいの繰り返しです。
慎重さが足りなかった。
いい加減に看てた。
これまで何度も死にかけたけどその都度助かってたので、妹には強運がある。
死にはしないだろうという軽い気持ちでいた。
為に殺してしまったと激しい罪悪感と妹への申し訳なさ、何より死んでしまった本人が一番かわいそうでなりません。
僕は今までは確かに1人でよくやってきたと思います。
凄いと思います。
しかし妹はこんなに早く亡くしてしまっては今までの事は全て間違ってた、のだと思ってしまうのです。
今までは何とか毎日生きて来ましたが、ただ生きてるだけです。
母の少しの世話と簡単な家事とトイレ、風呂、くだらん仕事の繰り返しで、何もないです。ダラダラ生きてるだけです。
暑いせいか食欲もなく頭も痛い、吐き気もして、毎日キツイです。
ハスノハに投稿されてる他の方も身内亡くされた方は物凄くつらそうで、文章読むだけでもかわいそうです。
特に子供亡くされた方の投稿は自分に似てるのでかわいそうです。
妹は40まで生きましたが、もっと早く学生、幼児期に亡くなってる方は本当にかわいそうです。
皆さん絶望してると思います。何を言われてもその時は少しだけ気持ちが楽になるのですが、またすぐに元に戻ってしまうと思います。
身内、特に自分より年下の弟、妹、子供亡くされた方々はどうやって立ち直ると言うか、絶望から脱してるのでしょうか?
あと初盆や毎日線香あげは意味あるんでしょうか?
僕は先日4月26日未明に最愛の妹礼子あやこを僕の判断ミスで死なせて亡くなってしまいました。家族は認知症要介護5の母とその障がい者でてんかん病気持ちので妹です。父は10年ほど前に他界しており、それを気に大阪から家族のいる愛媛県に来ました。母は2012年のことです。母が2014年くらいに認知症になりそこから近くに住む叔父と僕とケアマネさんヘルパーさんディサービスなど利用しながら何とか生活してきました。その叔父も数年前に他界してしまいました。僕は長年パチンコ屋で働いてきて2交代制で昼間はデイサービスやヘルパーさん使ってましたが夜は2人に任せてました。その夜勤務の時に妹がてんかん発作お越し嘔吐物による窒息で亡くなってしまいました。
妹に守れなくてごめんねと謝りたいですけど最後の日妹は体調悪そうだったのに薬もなかなか飲めずにご飯も食べてなかったのに、僕はイライラしてどうせどうにかなるだろうと甘く考えて仕事に行ってしまいました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
貴方の思い出すままに妹さんは存在しているのです
拝
ご相談ありがとうございます
とても辛い心中お察しします
私も乳児の子供を亡くしました
朝起きたら隣で冷たくなってました
原因不明でしたが
自分や妻が押しつぶしてしまったのか
窒息だったのか
布団がかかって無くて寒かったのか
それはもう疑いはじめたら
自分達の責任であるような気がしてなりませんでした
でも亡くなってしまったらそんなの関係ない
何より大事なのは、送る側の心の在り方なんです
お経に「一切皆空」という言葉があります
あらゆる現象は
関係しあって存在しているということです
妹さんも誰かが思い出してくれる限り
その人の中で生き続けます
これも亡くなった人と
生きている人双方があってこそです
妹さんはもう見ることもさわることも出来ません
でも、どんな時も貴方の中でだけは生き続けるんです
その貴方が例えば今のように悲しい心で自責を持って思い返す限り
悲しい存在として貴方の心に再現されています
難しい話のようですが
妹さんを思い出すだけでも
妹さんは実際に頭の中に存在するという事で、それは妹さんの霊と同じという事です
人は誰しも幸せになるべく
死するまで生きています
不幸になりたくて生きている人はおりません
亡くなっても同じです
故人を悲しく思い返すなら
故人は逆に生きている人に悪い方向に引っ張られてしまいます
見方を変えれば
生きている人の力の方がとても強く
故人を想う生きている人の心や行い次第で幸せにもなるし
不幸にもなるという
そういうわけなのです
死とは生と同じく人智の及ばぬ領域
誰のせいとかではないのです
晩年妹さんは境遇を憎まず
天使のように精進されていたはずです
食が細くなったのも生きる限界を悟ったからでしょう
それはまさに
今の弱い貴方にその境遇を恨まない強い生き方を伝えに来るのが役目だった
私には、存在そのものが愛を伝える為だったような気がしてなりません
こんなふうに私たちの考え方や心の在り方が個人にとってとても大切なのです
儀式を行う時準備する時もそのような正しい心持ちで故人と向き合い
弔うことが何より大事です
そんなことやって意味あるのかではなく意味を持たせるのは人生の主役である自分なのです
合掌
追伸
共に太陽を見たら太陽に妹さんを思いましょう
太陽が照らすように明るく生きましょう
質問者からのお礼
丸山住職、早い返信ありがとうございます。
妹の事は毎日24時間思ってます。
僕の中では生きてます。
最後倒れてた時の表情はとても苦しそうでそれがとてもかわいそうでした。
病院で死亡確認されてから自宅に安置された時は明らかに寝顔が笑ってました。
その笑顔が僕の唯一の救いです。
天使のような妹は本物の天使になったと考えるようにします。
太陽の様な妹は本物の太陽になったと考えるようにします。
妹はあの日が限界だったのでしょうか。
運命だったのでしょうか?、ならば誰が何をしようとも致し方なかったのでしょうか。
妹は愛、そのものだったのでしょうか。
お礼の礼に子と書いて礼子、あやこと言う名前も神仏的な名前の様な気がします。
亡くなっても毎日妹を思います。
生きてる人より
も大切に思います。