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久々に悩み事をご相談させてください

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 こんばんは。ずいぶん前にハスノハさんにお世話になっておりました。斉木と申します。ハスノハさんのサイトに来たのは久々で、過去にどんな質問をしていたのか気になって見てみました。とてもお恥ずかしい質問ばかりしていて、赤面してしまいましたよ笑。
 以前の自分は仏教用語を理解すれば悟れる、つまり苦しみから解放されると考えていましたが、理解したところで何も変わらず、意味がないと実証しました。
 なので今は仏教用語やらは全部放っておいて、坐禅する生活を送っております。

 過去のお話はここまでにして、ここからは日常生活においての悩み事をご相談させてください。このジャンルのお悩みは以前よく質問させていただきましたが、人間関係についてです。人間関係が楽になるにはどうしたらいいのか、という内容です。
 ある体験談をさせていただくと、僕は中学校の時に友人から嫌われて陰口を言われ、クラスで孤立した経験があります。
 そして、同じ中学の人がいない高校に上がった時に、初めの数ヶ月はクラスの人と馴染んでいました。しかし、授業中に誰かが友達と話していると、自分の悪口を言っているんじゃないかと考えてしまい、勝手に[俺は嫌われたんだ。もう無理だ]と決め付け、信じ込んでしまいました。
 そしてこう思いました。[もうどうでもいいや。嫌われたんだから何をしてもいいだろ。]と。その途端、急に楽に、自由な感覚になったのです。後に、普通に友達が声をかけてきたことから、勝手に自分が嫌われていると信じ込んでいたことが分かり、結局元の不自由な状態に戻ってしまいました。
 ちなみに、アドラー心理学という学問では、自由とは他者から嫌われることを恐れないことだ、と教えられています。
 嫌われていると信じ込んでいた時の僕は、まさに他者から嫌われることを恐れていなかったのです。しかし、その後自分の勘違いだったことに気付くと、また元に戻ってしまいました。なぜこのような体験談を書いたかと言いますと、今の自分の状態が過去の自分の状態と似ているからです。
 これは勘違いではありませんが、職場で明らかに僕のことを嫌っている人がいます。落ち込むことは落ち込みますしとてもショックでしたが、一方で楽にもなっています。一体なぜ、嫌われることを恐れない心境になったのでしょうか?
意味の分からない質問で申し訳ありません。回答いただけると有難いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

諸行無常ですからね

拝読させて頂きました。
好かれようと嫌われようとなるようになるさ!と思ったからではないでしょうか?好き嫌いや相性はあれこれ考えてもきりがないです。
ものごとは常に移り変わりいきます、一時としてとどまることはありません、自分も他者も。
一つのことにとらわれてしまいますと苦しくなります。逆にとらわらずに気にしなくなると急に気持ちは軽くなり楽になりますからね。つまり「諸行無常 諸法無我」ですよね。

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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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仏道による喪失感からの解放

人間には自分をかわいがる心があるのでしょう。
それは「自分が自分が」「自分の自分の」と意識があっても、この身を自分であるなどと思うことも知らずに生まれてきたはずの「謎の生命体」でありながら、この身心=「このもの」をいつの間にか脳内認知の働きで「わたし・おれ・じぶん」というラベルを張るようになったからです。このラベル意識は自分の主体、中心の定めのはたらきになるのです。だから、自分意識が強く働くところ(焦点を合わせているところ)を「守ろう」とするようになるのです。それが自己意識、自分意識。自我ともいう。
ですが、仏法の上では「このもの(自己意識以前のこの自身の身心)」=自己の身心および作用は誰のものでもない。自分の意識がこの身に乗っかる・起動する・立ち上がる以前のさまを生きていた。
そこが人間本来の仏の様相。
そこのところを明らかにする導きが坐禅なのです。
坐禅の導きは無所得、無所悟と誤解されますが、ちゃんと大きな会得、獲得がある。無所得無所悟とは、仏法を会得するうえでの姿勢のことであって、悟りや会得が「ない」わけではない。ただしく法にかなった坐禅をしていれば「わたし」ということがなくなる。自分意識が忘じられる。
道元禅師の説示
「仏道をならうということは自己をならうなり
 自己をならうというは自己をわするるなり」
自己意識がこの身心から滅せられていればそれは、自分の都合も守り意識もなくなるはずでしょう。
損ねられることが無くなる。
般若心経に説かれる「不増不減」という心は、事実を事実の通りに生きているから損なわれがないということです。
一般的には人から嫌われるとか、自分(自分意識の定める自分のもの・自分のテリトリー)の何かが失われるということは損ない、損なわれです。
ですが、それが無くなる。自分意識が忘じられることで自分が立たなくなる、自分の都合が立たなくなることによって、損得が無くなるのです。

職場でいわゆる世俗の価値観で優劣、勝ち負け、損得を競い合うようなまさしく「人間界」にあなたも住まなくなったといえるのでしょう。「住むところが違う」とは本当はそういうことなのです。出家とか出離とは何も特殊なことではなく、心がきちんとしたところに定まる。禅定。非思量。自己をわするるところに安住することで、確かな手ごたえが生じるのです。それも坐禅の功徳。仏道修行の功徳でしょう。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

Azumaさん回答ありがとうございます。[なるようになる]という言葉が凄く納得のいく言葉でした。好き嫌いは他人の判断であって、自分にはどうすることもできないので、自分はただ自分の好きなことをすればいい。それに対して他人がどう思おうとどうすることもできない。嫌うのも好くのも相手次第なので、自分らしく生きる。まさに成り行きに任せる感じだったと思います。不自由さは他人のどうにもならない評価ばかり気にして、自分らしく生きていなかったからなのだと気付きました。素晴らしいことに気付かせていただきました。ありがとうございます。

丹下覚元さん回答ありがとうございます。物にいきなり触れて活動する生命体に、後天的に自分というイメージを作ってしまうんですよね。
 仏の様子を本当の意味で体験するには、色々な仏教用語を理解しても無意味で、人間の認識機能が一度止まらないと分からないようです。坐禅だけが今は頼りです。
 僕は出家していない在家の者ですが、音を聞く上で出家とか在家とか関係ありませんからね笑。まさに心次第だと思います。
 これからも坐禅修行を頑張ろうと思います。

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