愛犬の死
3日前に愛犬のゆきが亡くなりました。14歳でした。認知症がかなり進んでいて、最後は自分の足を鎖と間違えて噛みちぎり病院に運ばれて、安楽死で死んでしまいました。先生が「このまま生きてても今夜が山。手術はできんこともないけど足を切断して義足にするからかなり痛いし疼いてずっと苦しむことになる」と言われ、私と祖母で話し合った結果、そうすることになりました。
ゆきが亡くなった後、本当に私たちの決断がゆきの望むことだったのか、勝手に人間のエゴで決めて私たちが殺したようなものなんじゃないかと自分を責めてしまいます。周りに「あまり悲しむと成仏できないから考えるな」「畜生は参りに行くと良くない。いいとこに行けないから」と言われるのですが、本当にそうなのでしょうか。思うことすら良くないことなのでしょうか。
前日までは元気だったのに、1日で冷たくなってしまうなんてあまりにもあっけなくていまだに信じられず、受け入れられずにいます。毎日考えてはいけないと思いながらもゆきのことを思ってしまい、一緒に撮った写真や動画を見てしまって泣いてしまいます。どうすれば受け入れて乗り越えることができるのでしょうか。
文章がぐちゃぐちゃですみません。よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
先ずは一週間ごとに向き合ってみては?
ある動物霊苑でお手伝いをさせて頂いている者です。
先ずはお悔やみを申し上げます。
南無阿弥陀仏。
安楽死を選択したことが悔やまれるのでしょうか?
あなたはゆきちゃんの事を考えてその時に出来る最善の選択をしたのだと
思います。
後になって考えてみて、
『ああすればよかったかも』
『こうすればよかったのかも』
などと考えていても、それは後知恵にしかすぎません。
一番いい解決方法があったとしても、過ぎてから思いついた事ならば、
それはその時に出来たことではないのです。
実際にゆきちゃんがどう思っていたかは残念ながら分かりませんが、その事でこんなに苦しんでくれる人がいたという事はゆきちゃんにとってとても幸せな事でしょう。誰にも看取られずに命を終えてしまう存在なんていっぱいいるのです。
「あまり悲しむと成仏できないから考えるな」「畜生は参りに行くと良くない。いいとこに行けないから」と色々と言われているようですが、例え話をしましょう。
暇つぶしに映画を見たとしましょう。いわゆるB級映画です。そんな大した事のない映画だとしても、そこに登場する俳優さんの演技やセリフに大きな感動を受けました。そしてそのことが自分自身の人生に良い方向に働くのであれば、この俳優さんの演技には仏様が含まれていると思うのです。
お墓参りに行きました。『そういえば爺ちゃん、生前にあんなこと言ってたな・・・。最近できてなかった・・・。これからもうちょっとしかりやろう』そう思うことが出来たなら爺ちゃんは仏様です。
悲しいお別れがありました。このお別れを通じて、命の有難さ、尊さ、儚さ、これらを頭ではなく心で理解することが出来、自分の血と肉とすることが出来るのならゆきちゃんも仏様です。
仏様は迷いません。あらゆる執着を離れた方なので、取りつきませんし、祟りません。仏様を御縁として先ずは一週間ごとに手を合わさてみてはいかがですか?向き合う時以外は仕事や趣味に打ち込んで気をそらしてみましょう。一週間後に向き合う時もお気楽に肩の力を抜いて『あはは、まだ難しいや、またね』と言って次の一週間まで待ちましょう。7回繰り返したら、次はそこから1カ月とちょっと休んでまた向き合ってみます。次はそこから9カ月休んで向き合ってみましょう。その次はそこから丸々一年です。
あせらずにマイペースに慣らしていけばいいと思います。
質問者からのお礼
ありがとうございます。お返事読みながら泣いてしまいました。無理に乗り越えようとしなくてもいいんですよね…
今日、霊園からゆきの前足の肉球が押された色紙と写真が届きました。車で運ばれていく際に「最後にお別れを」と言われて見た時と同じ安らかな顔で、私が入れたゆりの花の他にも沢山綺麗な花に囲まれて天国に旅立つことができたみたいで良かったです。「成仏できない」「参りに行くな」とは言われましたが、私の中で整理がつくまでゆきのことを思い出したりすることはやめられないと思うので焦らずに自分のペースで進んでいきたいと思います。今はまだ思い出しても悲しい辛い感情の方が大きいのですが、いつか笑いながら可愛かったこと、面白かったことを周囲の人と語れるようになりたいです。本当にありがとうございました。