自分の悪い面を受け入れる必要性
自分の悪い面を受け入れる必要性ってなんですか?
自分は反省はするけど受け入れたくありません。
大体の人は、正論言われると腹が立つと思います。
頭では分かってるけど潜在意識みたいなものだから考えるのを先延ばしにしたり言い訳をします。
わざわざ、悪い所を受け入れたら落ち込むし嫌だな〜って感じるけど世の中的には受け入れろという風潮だと思います。
そもそも、人から指摘されたら悪い所なのか?自分で悪い所と思ってる場合は思い込みなのでは?と不思議だらけです。
短所を言い換えれば長所になるとか言うじゃないですか。
どんなに薄い紙にでも裏表があるんだから人間に良い面も悪い面もあって当然だし、無くなることはないけど最低限無くそうって事ですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「悪い面を受け入れる」とは、本来の自分に気がつくこと
こんにちは。
私も20代前半の頃は、特に人から指摘されるのが嫌いでした。
当然指摘されるのが嫌だから、それを受け入れるのも嫌でした。
以下は、40代の人間から若者を見た、説教臭い文言のように映るかもしれませんがよかったら読んでください。
20代は、親の庇護下にある学生時代から脱して、一人の人間として精神的に自立していく過程にある年代です。つまり、自分は、自分が、自分の、をはっきりと主張することで自分という感覚を醸成、確立する年頃なのです。だから、人から言われるのが嫌、何か自分が侵害された気になる、そういう感覚はあってもいいのだと思います。
ただ、長い目で見ればだんだんとできる限りの自省ができるように成った方がいいです。
『裸の王様』をご存知でしょう。
この物語は、自分を愚かだと思いたくない、思われたくない人達の物語です。
王様から臣下、そして民衆へとドミノ倒しのように、この思いは広がっていくという喜劇であり、ある種悲劇です。自分を愚かだと思いたくない、思われたくない=自尊感情が裏目に出た物語なのです。
愚かな人には見えない衣を詐話師に勧められた時、少なくとも臣下が王様何を言っているのですか間違っています、と言っていたらどうだったでしょう。そして、王様も自分の間違いを認めていたらどうだったでしょう。あの考えるだに恥ずかしいパレードはなかったはずです。
この物語を教訓とするならば、「自分の悪い面を受け入れる必要性」は自明のこととして分かるのだと思います。そうでなければいつか幼い子供から、王様が裸だよと指摘されることになりますから。
勿論、指摘する人、指摘される内容については吟味、留保すべき点はあります。
ただ、根本的に「自分の悪い面を受け入れる」とは、本来の自分に気がつくこと、という意味でとても大切です。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
自分を客観視しないと、大事な事にはいつまでも気付けませんね。