いくらお祈りしても苦しいのが消えない
私は、お寺巡りをして色々なすごい人たちが作った仏様のみまえで手を合わせるのが趣味というか、日常になっています。
今、私自身とてもしんどい状況下にあり、最近はそのことを思いながら「助けてください」と心の中で呟きながら手を合わせています。
しかし、しんどいことに変わりはなく、仏様がずっと見守っていてくださるという安心感すら得られずにいます。
それどころか、お祈りを捧げることによって、しんどいことを思い出してしまって逆にしんどさが悪化するパターンすらありました。
私の祈り方が間違っているのでしょうか?
正しいお祈りの仕方、作法や、お祈りする時の心の在り方についてアドバイス願いたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分を救えるのは自分だけ
仏教に限らず、どんな宗教、どんな人種にもお祈りはあります。
祈る対象は違うけれど、祈る人の気持ちは一緒だと思います。
願い事の成就だったり、心の安寧だったり、あるいは救いだったり。
ただ、祈った瞬間に何かが起きるわけではありません、それは映画やアニメなど物語の中だけのお話で、現実には何も起こりません。
では何故、人は祈るのでしょう?
それは、自分の身の回りの「自分の力ではどうにもできないこと」に直面したとき、よりよい結果になりますようにとの願いからではないかと思います。
生きていると、自分の力ではどうにもできない出来事に直面する瞬間がままあります。
人間関係でも、他人は必ずしも自分の思い通りにはならないし、自分自身さえも老いや病など、思い通りにならないことだらけ。
そんな中でも、人はより良く生きたいと願い、祈ります。
祈った結果が、思い通りでは無かったとしても、文句は言えません、そもそも何も起こらないのですから。
全ては自分の行いと、ご縁の成り行きの結果でしかないのです。
思い通りにならない物事は、どうがんばっても思い通りにはなりません、時間の流れとご縁のなりゆきにお任せするしかないのです。
でも、不思議なことに、全部なげうってお任せしてしまうと、心が楽になるんですよね。
いったん全部をなげうってしまって、ただ祈る。
すると心にひとつ「句読点」をつけることができます、自分を見つめ直す、世界を見つめ直す、そういう作業ができるようになります。
祈っても「奇跡」はまず起きません。
けれど、自分を変えることはできるはず。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
私が、祈っても心が楽にならないのは、きっとすべてをなげうることができていないのだろうなと、思いました。
心のどこかで、自分のことは自分で決めたいって思ってしまっているんだろうなと、思いました。
これからはすべてをなげうることができるようにと、手を合わせていきたいです。
精進します。
本当にありがとうございました。