人生を捻じ曲げていく
こんにちは!何回かこちらで質問した際に丁寧に回答をしていただいてありがとうございました。
今日は「人生を捻じ曲げること」について質問です
捻じ曲げるといっても悪い方向にするのではなく、自分のなりたいとか目指す方向に向けるという意味です
私は幼少期はあまり恵まれた家庭ではなく、ここにいたら自分が死ぬか誰かをやっちゃうだろうと合法的な手段で家を出て生きる為に悪い事もしましたが今は平穏に暮らしています
「自分を幸せにできるのは自分の意思と行動次第」みたいに考えてなるべく良くなる様に考えてきました(悪い選択をしなきゃいけない事ももちろんありました)
まわりの人に恵まれた事もあって平穏に暮らしていて、ふと思いました
「私はこんなところで死ねるか!と思って人生を捻じ曲げてきたけど、もしかして捻じ曲げずに素直に受け止めた方が良い事もあったのかなぁ?」と
私は現在40歳でさすがにこの歳になってグレたりしようとも思いませんが、これから先どのように自分の考えを保ったり不必要な考えを削って行けば良い人生が送れるでしょうか?
「まわりの人に恵まれた」のでその与えてもらった人みたいになりたいなぁとぼんやり思うものの具体的にどのようにすれば良いのかわかりません
方法はおいおいじっくり考えるとして、まず心の持ち方としてどう意識して行けば良いでしょうか?
お坊さんのご意見を伺いたいです。ふんわりして漠然とした質問ですみません
毎日楽しく過ごしているのでこれといった困りごとは少ないのですが、たまにエアポケットに落ちた様に数日間気持ちが沈むことがあります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お接待こそが心を保つ薬なのです。
拝読させていただきました。
「人生」を見事に完成させる人は誰ひとりとて居ないものであります。
なぜ?
わたしは完成な人生に運ぶことができないといえるのでしょうか。
仏教での本質は利他行であるからなのです。人はついつい自分よがりに生きることに意識を向けてしまうものであり、自分のことを我とも呼称します。
その我を自分の利益のために行いを世間は「自分ばっかり」「自分勝手だな」などと言いますよね。
この自分を中心とする思考を「我利我利亡者(ガリガリもうじゃ)」と申します。自分のことばかりに目を向けてしまうことで他人様が困っていたり、助けて欲しい手を差し伸べているにも関わらず、他人を見ることを忘れている心から亡者となります。
仏教には基本「八正道」が軸にありますが、この教えは自分をさとりへと導くための自分だけの修行法といっても過言ではありません。そこで日本に伝わる大乗仏教では「六波羅蜜」の実践を推進するのです。
八正道と重なることは多いのですが、基本は「利他行」が六波羅蜜の実践法なのです。利他とは他人の利益になること実践する行為です。
イメージされる僧侶のスタイルは読経して布施をもらうことが定着されていることも昨今では多く見受けられるようになりましたが、釈迦や多くの尊い仏と教えを伝える「法話・説法・説教」をすることで、それを聴衆された人々は有り難いお話しを聞けたことで、人生に変化が訪れる機会を与えてもらったことから布施という現在では財施という形になったのです。
僧侶だけが仏の教えを乞い、仏道を歩むのでは無く、在家さま一般の方々もできる実践が六波羅蜜行なのです。僧侶も在家もここには隔たりはなく、名言でも、他人さまから教えてもらい身に沁みた話しでも、失敗から立ち直った経験談でも他人様がまた前を向いて歩き、人生に希望をもてることを伝導していくことが、人々の生きる道標なのです。
その利他行こそが他人を救うこととなり、他人様がまた誰かにバトンしていくことが、目には見えないプレゼント(大慈悲)なのです。
例えば)
日本人口は約1億2700万人です。1日に1人が1つのゴミを拾えば、1日で1億2700万個のゴミが無くなります。皆、綺麗な環境で住めるに越したことはないのと同じで、人々のため、生きとし生けるもののために命を活かしていく事が自身を保つお守りとなっていくのです。
合掌
質問者からのお礼
法源さん、お返事が遅くなってしまってごめんなさい
頂いた回答を噛みながら考えていたら遅くなってしましました
今は自分だけが辛いとかそういった気持ちは少なく落ち込むことは有っても概ね楽しく生きていて、よく考えたら自分に余裕が無い辛い時って今みたいな考え方をしてなかったなぁと思います
まだまだ利他行をやるぞできるぞ!とは思わないけれど、なるべく自分にも誰かほかの人も気持ちが良いと思えそうな行いを少しずつ実践できればと思います
1人が1つずつゴミを拾えば…の例えはすごくしっくりきました
難しく考えるより実践してみます!ご回答ありがとうございました