別れがあるのに出会う理由。
既婚者を好きになってしまいました。
当然、自分の気持ちは胸の奥にしまい、初めから諦めています。
私は、人を好きになることがあまりないのですが、私が好きになる人はいつも手の届かない人です。素敵な人が現れて好きになるたび、欲しいものが手に入らない苦しさ、悔しさでとても辛いです。結ばれることはないのに、どうして出会ってしまうんでしょうか。恋愛のような特別な感情を一旦抱くと別れがとても辛いです。別れがあるのに出会う理由を教えてください。また、こんな私でもいつか一生離れなくてもいい、人生を共に歩むパートナーに出会えるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
善き出会いは、善き別れが生み出す。
出会いと別れはワンセットです。
出会いがなければ別れもないのです。
毎日たべるごはん。
思えばわたしたちのおなかに入るから、
いま目の前からはさよならです。
でも、本当にさよならしたかといえば、
わたしたちのおなかに入るわけですから、
ただ目の前からみえなくなっただけに過ぎません。
そしてごはんは、わたしたちの日々をささえる、
大きなチカラになるのです。それに活かされ、
わたしたちは生きているのです。生かされていると
いった方がいいでしょうか。
好きなひとと出会う。とうぜん嫌いなひととも出会います。
その出会いもまた、こころという「おなか」にはいるのです。
そうしてこころにはいった出会いにも、目の前からの
わかれがあるわけですが、それらもこころという「おなか」に
はいって、わたしたちが成長する大きなチカラになり、
それらが「活かされる」ことによって、
よりすばらしい人になっていくのです。
だからたくさんひとを好きになり、かなしくも別れを
経験することは、
わたしたちにとって、とても大事なことです。
あなたがもっと輝く、素敵な人になるために。
そんなあなたに、寄り添う方が必ず現れます。
あなたの理想とは違うかもしれない。でも、多くの
出会いと別れを経験したからこそ
「あ、このひとだ」
という瞬間が必ずあります。
どうか善き出会いがあります様に。
そして、別れがあなたを輝かせていきますように。
さちあれ。さちあれ。合掌
「不会不別」
ばいきんまん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「ばいきんまん」と「あんぱんまん」は、互いの存在(意義)により支え合って成り立っています。
既に星大晃様もおっしゃられておりますように、出会いと別れも互いに支え合って成り立っている概念となります。
更には、難しいことになりますが、仏教では、「不会不別」として、「会うことも無ければ、別れることもない」と説くこととなります。
それは、但し、出会い、別れという実体はありませんが、善き出会いも、善き別れも、悪い出会いも、悪い別れも、誠にそれぞれ「因縁」次第により成り立っていくものということでもあります。
善きご縁へと向けては、善き因縁(原因と条件)を調えていくことが大切です。
既婚者を好きになってしまっても、幸せになれるかどうかは因縁次第。それが悪い因縁となってしまっては、やはり悪い結果となってしまう。しかし、それが善い因縁となれば、善い結果となる。
また、仏教では、自分のことだけではなく、相手のこと、相手の周りの人たちのことも考えて、皆が幸せになれるような因縁を調えていくことの大切さも説いていくこととなります。
是非、これを機会に仏教も学ばれながらに、善い出会い、善き因縁、善き結果へと向けて、色々と取り組んで頂けましたらと存じます。
お幸せを祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お忙しいなか、回答ありがとうございます。
私は、家族と離れて暮らしており、周りには上辺だけの友達しかいない為、悩み事があっても誰にも相談できませんでした。また、既婚者を好きになるなど、とても人に相談できる話ではないので、インターネット上で、こうして仏教の視点からアドバイス下さり、とても救われました。人との出会いや別れ、縁についての考え方も変わりました。別れは辛いですが、アドバイスにより、それでもその人に出会わなかった人生よりは良かったのではないか、別れても0に戻るわけではない、そんな風に考えられるようになりました。本当にありがとうございます。