人との関わり方
日々人と関わるにあたり、自分の認識している「相手」というものは実在しないものであり、相手への知覚も全て自己より起因しているという考えをしています。
そのように人と関わると、人の行動全てに対して批判的な考えを持たずに済み、人のことをどう自分が考えてもそれは取るに足らないことで相手自身とは一切関係のないところにあると考えることが出来て無駄に相手を悪く思わずに済みます。
なにを起因にそう言った考えをするようになったかは忘れましたが、以前は人に怒ったりこうしてほしいという希望を持っていました。
今の考え方には先述のような良い点がありはします。しかし、以前のように相手に対して葛藤を感じていた頃のほうが人との距離を近く取れているような、暖かい人間だったような気がします。
相手の全てを受容しているつもりでいる今の方が、当たり前のようにも思いますが、孤独です。
私は人を批判しない考えに変わった時前進したと思っていましたが、それは違うのでしょうか。
そもそも、人の考え方には前進も後退もないのでしょうか。
そして、世界から孤独と争いを同時に無くすのは困難なのか、と自分の経験から考えましたが、そう言う面はあるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
それは考えではないですよ
相談内容に書かれていることは事実です。
考え方ではなく、今、目の前の事実に徹して生活してみてください。
足りないことなんて一つもないでしょ?それを知足というのです。
孤独を感じているということは、どこかでこうありたいとか、こうあるべきというような期待する雰囲気をお持ちなのでしょう。
そうした持ち物を全て手放し、自分という存在を忘れきった時に、真理に目覚めることができるのです。
坊さんの修行は今のあなたのようなところから始まります。
受け入れようとかしなくても外で鳥がチュンチュンピーピーいえば、耳はありのままにチュンチュンピーピーとなります。
それが人の声だろうと同じこと。そこに善悪、損得なんてない。事実は身体のある目の前の今ここにしか存在しません。
過去は記憶、未来も想像、つまりは脳の作り事。だからこそ人は救われる。昨日食べたカレーの味はもうどこにもない。
そんな生き方をしているはずなんです。
生まれてからずっとそうした生き方をしているのに思考や思想に振り回されているから、事実に目を向けなくなるのです。
孤独なんて感じることないですよ。目耳鼻舌身体を使い、今の様子だけで、満たされきっていきているのです。
人は、他人と心を通わしながら生きていくのですよ!
質問読ませていただきました。
人との距離間について悩んで苦しんでおられるのでしょうか?
心中お察しいたします。
さて、こばやしさんの考え方は、ある意味では真実に近い捉え方なのかもしれません。
しかし、人間というのは社会的動物であり、周りと密接に関わることで生を紡いでいく生物なのです。山奥の修行僧のように、人と交わらずに生きていく覚悟を決めた人であればそれでいいかもしれませんが、社会の中で生きていくつもりであればそうはいきません。
自分の人生を生きると共に、相手の事を思いやったりすることで他人と心を通わしながら生きていくのです。
また、こばやしさんの考え方は「相手の全てを受容している」というよりは、「出来るだけ相手に無関心であり続けよう」という考え方のように思われます。
自分の思考の中だけで、相手の感情や考えを主観的に決定づけることで、自分1人の責任として自分を納得させる。そこには「自分」しかいません。相手が存在していないのです。
それでは、人と人の距離は縮まりません。今の自分を冷たい人間だと思うのであれば、そこに原因があるのではないでしょうか。
また、前進と後退は表裏一体です。何かを得れば、何かを失う。つまり、前進することで何かが後退するんです。そして、何をもって前進とするかは、こばやしさんが「何を一番大切にしているか」で決まるでしょう。
結局のところ、こばやしさんが「どんな人間になり、どんな人生を生きていきたいか」をしっかり定めることがまず第一でしょう。その目標に向かって一歩でも前に進んでいるなら、それを前進と呼ぶのです。それによって失われるものもあるでしょうが、自分が大切にする目標のためであれば、甘受するしかありません。
そんなことも考えてみてくださいね
何か少しでも参考にしてみて下さい。
不安でも追加の相談でも何でも良いので、必要ならばプロフィールを参照いただき、メールやZOOMの個別相談をご利用くださいね。
質問者からのお礼
大変ありがとうございました。
とても納得するところと、至らないところがありました。
お坊さまのお考えの深さを感じると共に自分にまだまだある可能性を感じ、希望が持てました。