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死生観について知りたいです

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よろしくお願いいたします。

あまり大きな声では言えませんが、わたしは「死は救い」だと思って日々を生きています。

例えばわたしが死んだ時、それが自殺であっても事故や病死であっても、「可哀想に」ではなく「お疲れ様!がんばったね!」と言って送り出してもらいたいのです。もちろん、わたしのワガママです。普通、大切な人が亡くなったらそんなことを言えるはずない、と承知しています。ですが、何故かわたしは死を救いだと信じて疑えないのです。

この考え方は、やはりおかしいのでしょうか?なので、誰にもわたしの考えを言えません。
わたしは、どこかおかしいのでしょうか?それとも同じ考えの方は結構いて、ただ出会えていないだけなのでしょうか?

宗教のことに疎く、この考えが悪いこととされているのか、思っても良いこととされているのかを知りたいです。

2021年12月30日 14:18

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教における救いとは

めぐみさま

「死は救い」とまで申してしまうと「自殺、自死」を誘発してしまいかねないため、仏教ではそのように声高に申すことはありませんが、死は次の生への一過程であり、この生(苦)から離れて、次の新しい生へと向かうという点では、ある意味で「救い」と言えるかもしれません。

しかし、それは次の生が、ある程度の善趣(善い境涯の生まれ)であればとなります。

往々にして輪廻にある者においては、業(カルマ)を清らかに調えていかない限りは、次の生も苦を繰り返してしまうものであります。

そして、仏教では、「救い」は仏さまや他の誰かがもたらしてくれるものではありません。

あくまでも自分を救うのは、自分の行い(業)によるところとなります。

その行いをより善くに調えていくための教えが仏教となります。

合掌

2021年12月31日 12:37
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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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その様な考えもあります

拝読させて頂きました。
あなたがその様に思われてその様にお感じなさり、その様にお考えなさることも私は善いと思います。
人がどの様に生きていきどの様に亡くなったかもそれぞれに尊厳はありますし、尊重されるべきと思います。
あなたが今まで生き抜いてきて様々な出来事の中で様々な方々の生き方を目の当たりになさり、あなた自身が様々なことを実際に感じた中でその様に思われたのですからね。
私達は様々なご縁や、巡り合わせや恵まれてこの世に生命を与えられました。そして様々な出来事や出会いがあり、自ずと寿命も与えられています。生が与えられた様に死も与えられていると言えます。それがどの様な生き方や生き様であっても様々な形で平等に死を迎えることになります。
死を迎えることはとても辛いことであり悲しみやさみしさもあります、そして救いや解放もあるでしょう。
そして誰に対しても仏様は救いお導きなさって下さいます。お亡くなりになられた方々を仏様は導いて下さり、一切の迷いや苦しみや痛みから救い出して下さいます。そして誰もが何の憂いも苦しみもなく、心安らかに円満にご成仏させて頂くことができるのです。
私達が我欲である貪り怒り愚かさを全て捨てお互いを尊重し合い尊厳を守り合い、お互いに思いやり助け合い分かち合っていくことが誰でもできる様になり、社会や世界が仲良く共存し合うことができるならば私達の苦しみや痛みや迷いも消えていくことができるでしょう。
しかし人の歴史を見ても今の現実世界を見てもお互いに奪い合い憎しみ合い、争い合い殺し合っているのが現実です。幼い赤ちゃんや子供達や病いや障害を持った方々やお年寄り等の社会的弱者は争いの世界で弱肉強食の中で容赦なく奪われ傷つけられ殺されていく現実世界もあります。その様な地獄はこの世の中にあり、その様な地獄、現実世界を穢土と言います。
ですからその様な汚れた愚かな世界をいとい離れて、仏様の清らかな浄土に生まれ変わり救われていこうとする教えはあります。厭離穢土・欣求浄土という仏教の浄土教の教えです。その教えは明らかな死生観です。私も信じています。自分や大切な人が亡くなった時には必ず仏様がお導き下さりお救い下さり、仏様の極楽浄土に生まれさせて頂くことを信じ、仏様にどうか宜しくお願いしますと心から南無阿弥陀仏なむあみだぶとおとなえさせて頂いています。その様な教えもあるのです。

2021年12月31日 0:03
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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ