死生観について知りたいです
よろしくお願いいたします。
あまり大きな声では言えませんが、わたしは「死は救い」だと思って日々を生きています。
例えばわたしが死んだ時、それが自殺であっても事故や病死であっても、「可哀想に」ではなく「お疲れ様!がんばったね!」と言って送り出してもらいたいのです。もちろん、わたしのワガママです。普通、大切な人が亡くなったらそんなことを言えるはずない、と承知しています。ですが、何故かわたしは死を救いだと信じて疑えないのです。
この考え方は、やはりおかしいのでしょうか?なので、誰にもわたしの考えを言えません。
わたしは、どこかおかしいのでしょうか?それとも同じ考えの方は結構いて、ただ出会えていないだけなのでしょうか?
宗教のことに疎く、この考えが悪いこととされているのか、思っても良いこととされているのかを知りたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏教における救いとは
めぐみさま
「死は救い」とまで申してしまうと「自殺、自死」を誘発してしまいかねないため、仏教ではそのように声高に申すことはありませんが、死は次の生への一過程であり、この生(苦)から離れて、次の新しい生へと向かうという点では、ある意味で「救い」と言えるかもしれません。
しかし、それは次の生が、ある程度の善趣(善い境涯の生まれ)であればとなります。
往々にして輪廻にある者においては、業(カルマ)を清らかに調えていかない限りは、次の生も苦を繰り返してしまうものであります。
そして、仏教では、「救い」は仏さまや他の誰かがもたらしてくれるものではありません。
あくまでも自分を救うのは、自分の行い(業)によるところとなります。
その行いをより善くに調えていくための教えが仏教となります。
合掌
その様な考えもあります
拝読させて頂きました。
あなたがその様に思われてその様にお感じなさり、その様にお考えなさることも私は善いと思います。
人がどの様に生きていきどの様に亡くなったかもそれぞれに尊厳はありますし、尊重されるべきと思います。
あなたが今まで生き抜いてきて様々な出来事の中で様々な方々の生き方を目の当たりになさり、あなた自身が様々なことを実際に感じた中でその様に思われたのですからね。
私達は様々なご縁や、巡り合わせや恵まれてこの世に生命を与えられました。そして様々な出来事や出会いがあり、自ずと寿命も与えられています。生が与えられた様に死も与えられていると言えます。それがどの様な生き方や生き様であっても様々な形で平等に死を迎えることになります。
死を迎えることはとても辛いことであり悲しみやさみしさもあります、そして救いや解放もあるでしょう。
そして誰に対しても仏様は救いお導きなさって下さいます。お亡くなりになられた方々を仏様は導いて下さり、一切の迷いや苦しみや痛みから救い出して下さいます。そして誰もが何の憂いも苦しみもなく、心安らかに円満にご成仏させて頂くことができるのです。
私達が我欲である貪り怒り愚かさを全て捨てお互いを尊重し合い尊厳を守り合い、お互いに思いやり助け合い分かち合っていくことが誰でもできる様になり、社会や世界が仲良く共存し合うことができるならば私達の苦しみや痛みや迷いも消えていくことができるでしょう。
しかし人の歴史を見ても今の現実世界を見てもお互いに奪い合い憎しみ合い、争い合い殺し合っているのが現実です。幼い赤ちゃんや子供達や病いや障害を持った方々やお年寄り等の社会的弱者は争いの世界で弱肉強食の中で容赦なく奪われ傷つけられ殺されていく現実世界もあります。その様な地獄はこの世の中にあり、その様な地獄、現実世界を穢土と言います。
ですからその様な汚れた愚かな世界をいとい離れて、仏様の清らかな浄土に生まれ変わり救われていこうとする教えはあります。厭離穢土・欣求浄土という仏教の浄土教の教えです。その教えは明らかな死生観です。私も信じています。自分や大切な人が亡くなった時には必ず仏様がお導き下さりお救い下さり、仏様の極楽浄土に生まれさせて頂くことを信じ、仏様にどうか宜しくお願いしますと心から南無阿弥陀仏なむあみだぶとおとなえさせて頂いています。その様な教えもあるのです。