生きることに希望が持てず、苦しいです。
初投稿失礼致します。
皆様方、こんばんは。
私は19歳の女です。
簡単なプロフィールです。
中学生のとき、適応障害で不登校になった経験があります。
ひきこもりで、今は自助グループに通っています。
両親と兄の4人暮らしです。
悩みですが、「死にたい思いがある」ことです。
ずっと心のなかに黒い闇があります。
それは無数の手をしていて、私の顔を覆って身体ごと闇に引きずりこむようなイメージです。
これがある限り、どんなに楽しいことがあっても、すぐに苦しみに襲われます。
死にたいというのが口ぐせで、そうしようとしたこともありますが、「ここで死ぬのはおかしい」と思うことで生きてます。
生きながらも、生きることに希望が持てず、苦しむことの繰り返しです。これを断ち切りたいし、その為の努力もします。
仏教という観点から、皆様方のご意見、アドバイスいただけますと幸いです。
よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
思いを定めず、ゆっくりと生きていきましょうよ…。
お辛いお気持ちお察し致します。
現在『無数の手』が、御自身の『顔を覆って身体ごと闇に引きずりこむような』感覚を抱いていらっしゃるとのこと、私もこうして書いていて恐ろしくなりました…本当に恐怖を感じていらっしゃることでしょう。
そして、その感覚をもたらしているのは「脳の仕業」であることをご理解下さい。
人間の脳は素晴らしい機能を持っていますが、それ故に脳は勘違いをして「他の臓器はすべて俺様の言うなりだ」といった感覚を持っているようなのです。
ホントは心臓が動かなくなれば数分で、また胃や腸の働きによる栄養分が届けられなくなれば全く活動お手上げの存在なんですけどね…人間の多くの臓器の一つに過ぎません。
だから、あなたはそのような脳の日々の活動に感謝こそすれ、言いなりになる必要はないのです。
希望も、苦悩(希死念慮)も、全て脳が作り出す自分勝手な思いです。それらを仏教では一括りに「煩悩」と呼びます。
希望というと何か素晴らしい感情のようですが、煩悩です…だからすぐに「失望」に転じます。余り重要視する必要はありません。
それら煩悩を離れる道筋を説くのが仏教です。
希望からも苦悩からも離れる、捨て去るのが仏の教えです。その結果、恵まれるのが安らぎです。それは静かで深い喜びです…。
「そんな感情を無くしたような人間になりたくない」…ご安心下さい。それほど簡単に煩悩(感情)が無くなることはありませんから。しかしそれ故に私達は苦悩から離れることが出来ないのです。
そういった我が心(脳の働き)をつぶさに観察され、見抜かれたのが釈尊です。
どうでしょう。心なんて、感情なんて そんなものなのです。自分本位で、すぐにうつろいゆく、あやふやで不確かなものなのです。
そのような心を持った私達だからこそ、確かなる、変わることの無い仏様の慈しみの御心を頂いて生きていく…そうした志を持った者が仏教徒です。
どうか御自身を責めることなく、思い詰めることなく(結論を出さず)、ゆっくりと、そして仏様に支えられている安心の中で、人生の歩みを進めていきましょう。
あなたには仏様が御一緒下さっています…それだけは間違いのない事実です。
質問者からのお礼
小林 覚城様、ありがとうございます。
脳の仕業や臓器による例え話をお聞きして、ハッとしました。
「感謝こそすれ、言いなりになる必要はない」「希望も煩悩の一つである」など、今まで思いもしなかった、意外な一面が見えてきました。
欲深い心に、語りかけて頂いて、頑なな心があったことに気づけました。
簡単に人間の煩悩や感情がなくなることはないからこそ、仏様の慈しみの御心を頂いて、生きていらっしゃるのが仏教徒の皆様方なのですね。
私も苦しみや希望という、感情や脳の仕業である煩悩を抱えながら、見守ってくださる仏様がいらっしゃるのだということに気づけました。
ありがとうございました。