謙虚さを忘れない為には
最近謙虚さはとても大事だと気付き、謙虚さについて調べ、出来るだけ毎日謙虚さについて考え、実際に謙虚になるように過ごしております。
しかし、体調が優れない時はイライラしたりして謙虚であることを忘れてしまいますし、人と話したりすると「この人は謙虚でない」「この人は間違えている」と判断したり、「許せない」「あのことを自慢したい」と思ってしまい、すぐに謙虚さを失ってしまいます。
ハスノハにいらっしゃる僧侶の方々は謙虚な方ばかりなので、どうすれば謙虚で居られるのだろう?と思いました。
皆様はどのようなことを心掛けていらっしゃるのでしょうか?
皆様は謙虚さを失うことはあるのでしょうか?
もし失ってしまうことがあれば、どのように謙虚さを取り戻しているのでしょうか?
私は手に謙虚と書いておきたいくらいに謙虚さを失う機会が多いので、ご教授いただきたいです。
実家の宗教も自分が属する宗教もわからないタイプの人ですが、様々な真言などについて自分なりに学ぼうと考えております。 普段は誰にも言えませんが、常に見えない存在からの御加護を感じております。
暴走して取り返しのつかない失敗を犯してしまうことがある。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
大切な気づきをくださるものを、いつも心の中に。
だから、仏様がおそばにいてくださっているのだと思います。
私は、仏様に照らされて、我が身を振り返る生き方の中で、ようやく頭を下げることができています。
謙虚も、どこまでいっても自分なりの謙虚さでしかありません。人から謙虚だねと評価されたとしても、人間の物差しで計られているものです。
ですから、仏様に照らしていただかないと、どこまでいっても煩悩に振り回される危うい私です。そう気づかせてくださったのも、仏様。
どのような心掛けかということですが、仏様に向かうという日暮らし。お仏壇のある暮らしは、私を立ち止まらせてくださる。仏様に手を合わせ、み教えをいただきながら、自分と向き合う大事な時間になっています。お坊さんは、皆さんそうですから、謙虚に映るのではないでしょうか。
あなたも、大切な気づきをくださるものを、いつも心の中に。
人は、「隙あらばマウントをとる」習性をもつ動物です。
「マウントをとる」という比較的新しい言葉があります。格闘技から生まれた言葉かもしれませんが、ここではもちろん、相手よりも「精神的に優位なポジション」をとるという意味です。
人は誰しも、いつでも、隙あらば、この「マウントをとる」という行動をしてしまうものです。
相手よりも優位に立ち、指図したり、いじめのようなことしたりなど、故意的、意図的なものだけではありません。
私たちが普段、何気なく、悪気なく行っている「自慢する」、「相手をからかう」、「論破する」なども、精神的に優位なポジションをとろうとする行いで、しかも、その頻度は時々とか稀にというものでは無く、常に、いつもというぐらい、「隙あらばマウント」機能が発動するという非常に厄介なものなのです。
これは人間という生物がもつ特質のようなもので、ごく稀にいる聖人のような方以外の私たちほとんどは、この宿命から逃れることができません。「私はマウントをとらない」「差別しない」と思ったり言ったりする場合も、自覚していないけれども実は、自身の素晴らしさという優位をつくり、周りよりマウントをとる行為になってしまうという、とても悩ましいほどのものです。
これほど厄介な人間の本質だからこそ、「マウントをとる」性質を克服できないからこそ、「謙虚であること」の大切さは、繰り返し繰り返しずっと言われていますし、ミスに気づいては対応していくという「エラー&ビルド」を粘り強く行い続けていくことが大切だと思います。
他ならぬ私自身、この「マウントをとる」性質に振り回されていましてお恥ずかしいかぎりです。謙虚さを忘れないように心がけていきたいと思います。
常に謙虚でいることは誰にだって困難ですよ。
もちろん、私たちも意識していますが、なかなか謙虚をずっと維持し続けるのてしんどいんじゃないでしょうか?
とは言え、仏教の修行の基礎とも言える瞑想は精神を安定させるのにとても有効ですから、乱れた心を立て直すのは皆様より少し早いかもしれません。
『謙虚な心』を維持するには、やれることは二つあると思います。
一つ目は『“謙虚”とは何かを理解する』
二つ目は『乱れたときは心を立て直す』
謙虚とは、自分のやれることをまっすぐ見つめることです。
過大評価もですが、実は過小評価も駄目です。
行き過ぎた謙遜は傲慢にもなってしまいます。
まずは、“実力も運のうち”であると気づき、心に留めましょう。
間違いなく、この順番です。
例えば、見える目を持っていること、動く四肢を持っていること、言葉を話せること、考える頭を持っていること。
そもそも人として生まれること自体が“幸運”なことですから、実力などほとんどが仏様からの授かりものです。
実力すら運ですから、それを鼻には掛けられませんし、それを理解していない人を見ても、
『ああ、この人は“実力も運のうち”と理解する機会に恵まれなかったんだな』
と思うことができるようになります。
しかし、そう言った心の動きも、健康な心でないと正常に行うことはできません、
ですから、瞑想や呼吸法などを用いて自分の心と向き合い、乱れた場合は早めに立て直すことを意識します。
これら二つに取り組めば、自分の心を良い状態で維持できる時間は確実に増えると思いますよ。
質問者からのお礼
けいじょう様
お礼が遅くなってしまい大変申し訳ございません。
ご回答いただきましてありがとうございます。
謙虚を維持するのにやれること、その2つに気付いておりませんでした。
たしかに大口を叩いて何でも出来ると言うのも違うし、謙遜し過ぎて自分が出来る範囲のこともやらないというのも違うと思いました。
そして「実力も運のうち」という言葉にハッとしました。「運も実力のうち」とはたまに聞きますが、よく考えると実力だと思っているものさえも、自分一人で得られたものでは無いのかもしれません。
私は五体満足に生まれ、今のところ重大な事故に遭ったりもしていません。それも、全てたまたま運が良かったからなんだ…と気付かされました。
生きていれば不幸に感じる出来事もありますが、それを不幸だ不幸だと嘆き続けるだけなのも、目も見えているし手も使えているし、命もあるし、与えられ続けている幸運に目を向けていないことなのかもと思いました。
与えられた運に気付くことも、謙虚さの一つなのかもしれないと思いました。
健康な心でないと正常に行うことは出来ない、たしかにそう思います。
私も見習わせていただき、呼吸法や瞑想を取り入れてみようと思います!
ご回答ありがとうございました。
中田三恵様
お礼が遅くなってしまい大変申し訳ございません。
ご回答いただきましてありがとうございます。
大切な気づきを下さるものが心の中に無いと、全てがただ目に見えているだけ、耳に聴こえているだけなのかもしれないと思いました。
たしかに誰かに謙虚だと言われることがあっても、別な人からは偉そうだと言われたりもしますし、どうしても絶対的な基準のようなものは無いのだと思いました。
絶対的な基準が無いものだからこそ、誰かの基準に合わせ続けてもどうしようも無いことなのかもしれないと気付きました。
誰かに私は謙遜でしょうか?と聞いて評価してもらっても正解ではありませんし、仏様と向き合い、日々の行いを振り返り、自分とも向き合い、自分なりの答えを出すのが大事なのかもしれないと気付きました。
幸いにも我が家には父の手作りの小さなお仏壇があります!
毎日必ずご飯やお菓子をお供えしているので、早速お供えする時間に仏様に語りかけ、自分の行いを振り返っております。
ご回答ありがとうございました。
中村建岳様
お礼が遅くなってしまい大変申し訳ございません。
ご回答いただきましてありがとうございます。
そうなのですよね、私は友達に「マウントを取られた」と思ったのが一番最初のきっかけで謙虚について考えるようになりました。
考えるうちに「取られた、と考えるということは私もマウントを取りたかったし、もしかすると今までこの人に対してマウントしてたのかもしれない」と思うように至りました。
聖人のようになりたいと思って聖人のように振る舞っても、結局聖人のフリでしかなくて、心の中では私は間か違っていないと思ったりして、自己嫌悪に陥っておりました。
聖人になることで友達よりも良い人間だと思いたいのは確実にあると思いました。
しかし、ミスをしてもそれに気付き、直していくエラー&ビルドは心掛けて行けそうだと思います。
日々、エラー&ビルドも心掛けようと思います!
ご回答ありがとうございました。