hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

謙虚さを忘れない為には

回答数回答 3
有り難し有り難し 48

最近謙虚さはとても大事だと気付き、謙虚さについて調べ、出来るだけ毎日謙虚さについて考え、実際に謙虚になるように過ごしております。

しかし、体調が優れない時はイライラしたりして謙虚であることを忘れてしまいますし、人と話したりすると「この人は謙虚でない」「この人は間違えている」と判断したり、「許せない」「あのことを自慢したい」と思ってしまい、すぐに謙虚さを失ってしまいます。

ハスノハにいらっしゃる僧侶の方々は謙虚な方ばかりなので、どうすれば謙虚で居られるのだろう?と思いました。
皆様はどのようなことを心掛けていらっしゃるのでしょうか?
皆様は謙虚さを失うことはあるのでしょうか?
もし失ってしまうことがあれば、どのように謙虚さを取り戻しているのでしょうか?

私は手に謙虚と書いておきたいくらいに謙虚さを失う機会が多いので、ご教授いただきたいです。

2022年1月30日 17:47

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大切な気づきをくださるものを、いつも心の中に。

だから、仏様がおそばにいてくださっているのだと思います。
私は、仏様に照らされて、我が身を振り返る生き方の中で、ようやく頭を下げることができています。

謙虚も、どこまでいっても自分なりの謙虚さでしかありません。人から謙虚だねと評価されたとしても、人間の物差しで計られているものです。

ですから、仏様に照らしていただかないと、どこまでいっても煩悩に振り回される危うい私です。そう気づかせてくださったのも、仏様。

どのような心掛けかということですが、仏様に向かうという日暮らし。お仏壇のある暮らしは、私を立ち止まらせてくださる。仏様に手を合わせ、み教えをいただきながら、自分と向き合う大事な時間になっています。お坊さんは、皆さんそうですから、謙虚に映るのではないでしょうか。

あなたも、大切な気づきをくださるものを、いつも心の中に。

2022年1月31日 3:19
{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
このお坊さんを応援する

人は、「隙あらばマウントをとる」習性をもつ動物です。

「マウントをとる」という比較的新しい言葉があります。格闘技から生まれた言葉かもしれませんが、ここではもちろん、相手よりも「精神的に優位なポジション」をとるという意味です。

人は誰しも、いつでも、隙あらば、この「マウントをとる」という行動をしてしまうものです。

相手よりも優位に立ち、指図したり、いじめのようなことしたりなど、故意的、意図的なものだけではありません。
私たちが普段、何気なく、悪気なく行っている「自慢する」、「相手をからかう」、「論破する」なども、精神的に優位なポジションをとろうとする行いで、しかも、その頻度は時々とか稀にというものでは無く、常に、いつもというぐらい、「隙あらばマウント」機能が発動するという非常に厄介なものなのです。

これは人間という生物がもつ特質のようなもので、ごく稀にいる聖人のような方以外の私たちほとんどは、この宿命から逃れることができません。「私はマウントをとらない」「差別しない」と思ったり言ったりする場合も、自覚していないけれども実は、自身の素晴らしさという優位をつくり、周りよりマウントをとる行為になってしまうという、とても悩ましいほどのものです。

これほど厄介な人間の本質だからこそ、「マウントをとる」性質を克服できないからこそ、「謙虚であること」の大切さは、繰り返し繰り返しずっと言われていますし、ミスに気づいては対応していくという「エラー&ビルド」を粘り強く行い続けていくことが大切だと思います。

他ならぬ私自身、この「マウントをとる」性質に振り回されていましてお恥ずかしいかぎりです。謙虚さを忘れないように心がけていきたいと思います。

2022年1月31日 11:22
{{count}}
有り難し
おきもち

1971年生。岐阜大学教育学部卒業。医療法人に就職し、医療事務、経理、総務...
このお坊さんを応援する

常に謙虚でいることは誰にだって困難ですよ。

もちろん、私たちも意識していますが、なかなか謙虚をずっと維持し続けるのてしんどいんじゃないでしょうか?

とは言え、仏教の修行の基礎とも言える瞑想は精神を安定させるのにとても有効ですから、乱れた心を立て直すのは皆様より少し早いかもしれません。

『謙虚な心』を維持するには、やれることは二つあると思います。
一つ目は『“謙虚”とは何かを理解する』
二つ目は『乱れたときは心を立て直す』

謙虚とは、自分のやれることをまっすぐ見つめることです。
過大評価もですが、実は過小評価も駄目です。
行き過ぎた謙遜は傲慢にもなってしまいます。

まずは、“実力も運のうち”であると気づき、心に留めましょう。
間違いなく、この順番です。
例えば、見える目を持っていること、動く四肢を持っていること、言葉を話せること、考える頭を持っていること。
そもそも人として生まれること自体が“幸運”なことですから、実力などほとんどが仏様からの授かりものです。
実力すら運ですから、それを鼻には掛けられませんし、それを理解していない人を見ても、
『ああ、この人は“実力も運のうち”と理解する機会に恵まれなかったんだな』
と思うことができるようになります。

しかし、そう言った心の動きも、健康な心でないと正常に行うことはできません、
ですから、瞑想や呼吸法などを用いて自分の心と向き合い、乱れた場合は早めに立て直すことを意識します。

これら二つに取り組めば、自分の心を良い状態で維持できる時間は確実に増えると思いますよ。

2022年1月30日 18:26
{{count}}
有り難し
おきもち

けいじょう
日蓮宗の僧侶、啓誠(けいじょう)と申します。 修行に失敗し、一度は腐...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

けいじょう様
お礼が遅くなってしまい大変申し訳ございません。
ご回答いただきましてありがとうございます。
謙虚を維持するのにやれること、その2つに気付いておりませんでした。
たしかに大口を叩いて何でも出来ると言うのも違うし、謙遜し過ぎて自分が出来る範囲のこともやらないというのも違うと思いました。
そして「実力も運のうち」という言葉にハッとしました。「運も実力のうち」とはたまに聞きますが、よく考えると実力だと思っているものさえも、自分一人で得られたものでは無いのかもしれません。
私は五体満足に生まれ、今のところ重大な事故に遭ったりもしていません。それも、全てたまたま運が良かったからなんだ…と気付かされました。
生きていれば不幸に感じる出来事もありますが、それを不幸だ不幸だと嘆き続けるだけなのも、目も見えているし手も使えているし、命もあるし、与えられ続けている幸運に目を向けていないことなのかもと思いました。
与えられた運に気付くことも、謙虚さの一つなのかもしれないと思いました。
健康な心でないと正常に行うことは出来ない、たしかにそう思います。
私も見習わせていただき、呼吸法や瞑想を取り入れてみようと思います!
ご回答ありがとうございました。

中田三恵様
お礼が遅くなってしまい大変申し訳ございません。
ご回答いただきましてありがとうございます。
大切な気づきを下さるものが心の中に無いと、全てがただ目に見えているだけ、耳に聴こえているだけなのかもしれないと思いました。
たしかに誰かに謙虚だと言われることがあっても、別な人からは偉そうだと言われたりもしますし、どうしても絶対的な基準のようなものは無いのだと思いました。
絶対的な基準が無いものだからこそ、誰かの基準に合わせ続けてもどうしようも無いことなのかもしれないと気付きました。
誰かに私は謙遜でしょうか?と聞いて評価してもらっても正解ではありませんし、仏様と向き合い、日々の行いを振り返り、自分とも向き合い、自分なりの答えを出すのが大事なのかもしれないと気付きました。
幸いにも我が家には父の手作りの小さなお仏壇があります!
毎日必ずご飯やお菓子をお供えしているので、早速お供えする時間に仏様に語りかけ、自分の行いを振り返っております。
ご回答ありがとうございました。

中村建岳様
お礼が遅くなってしまい大変申し訳ございません。
ご回答いただきましてありがとうございます。
そうなのですよね、私は友達に「マウントを取られた」と思ったのが一番最初のきっかけで謙虚について考えるようになりました。
考えるうちに「取られた、と考えるということは私もマウントを取りたかったし、もしかすると今までこの人に対してマウントしてたのかもしれない」と思うように至りました。
聖人のようになりたいと思って聖人のように振る舞っても、結局聖人のフリでしかなくて、心の中では私は間か違っていないと思ったりして、自己嫌悪に陥っておりました。
聖人になることで友達よりも良い人間だと思いたいのは確実にあると思いました。
しかし、ミスをしてもそれに気付き、直していくエラー&ビルドは心掛けて行けそうだと思います。
日々、エラー&ビルドも心掛けようと思います!
ご回答ありがとうございました。

「お坊さんに応援、励ましてほしい」問答一覧

何とアドバイスしたらいいから分かりません

いつも有難うございます。 今日はお坊様方ならどうお考えになるか伺いたく投稿します。                      パートナー(40代)は数ヶ月〜2・3年での転職を重ねています。人間関係が理由です。  仕事の覚えは早く、どんな仕事でも真面目にやるので、じきに頼られるようにもなります。  ただ、そこから周囲が変わっていくようです。  徐々に、任された仕事以外を押しつけられたり サボりを見せつけられたりするようになり、仕事が増えていく。良かれと思って、仕事こなし続けても増長され。  次第に担当域にそんな空気が濃くなり本人や上に話してもその場限りで、変わらず。  キツめに言うと、腫れもの扱いされるようになり、結局 彼が辞める。                      大体この流れのようです。  友人や私とその度長い時間話をして、  "正しい 正しくない" は必ずしも絶対ではない、言葉の受け止め方も仕事への考え方も、人によって皆違う。 等 言っているのですが、どうも、うまく伝えられません。  本人も 「同じ事繰り返したくなんかない、だけど、その為には 仕事の手抜き覚えて笑ってればいいの?それは絶対できない」 と言います。                                半面、真面目にやってるのを見て、一緒に仕事してて楽しいと言ってくれる人もどこに行っても必ずいます。  友人も私も、彼のそういう人が集まってくる面も知っているので、何とか気持ちよく働いて欲しいと思っているのですが。                       お坊様方はこのような人にはどんなお話をされますか?  分かりにくい長文になり、申し訳ありません。  どうぞ宜しくお願い致します。  

有り難し有り難し 20
回答数回答 1

知識・知恵について

ハスノハ様 利用させていただくのは2回目ですが、悩みがありご相談させていただきたく思います。よろしければお手隙の際にでも読んでいただけたら嬉しいです。 私はいつも漠然とした悩みがあります。上手くいかなければ自分を責め自己否定を繰り返すこともしばしばですが、正常な時もそうでない時も共通して言えるのは、いつも暗闇の道を手探りで歩くような先の見えない不安感があり、苦しんでいます。生きる上でどこを目指して進んだらいいのかわからない感覚に近いと思います。 その原因について考えた結果、視野の狭さではないかと思いました。思い返すと私は小さい頃から勉強をあまりしませんでした。恐らく一方的に教えられることに関心が抱けなかったためです。そのせいか知識が薄く意見も薄っぺらいです。読書や鑑賞物を楽しんだり熟考したりといったこともさほどしてきませんでした。何か悩んだりするとすぐ死にたいと短絡的に嘆きます。 趣味もやりたいこともなく(普通の人であればドラマや映画を見ていると思いますが、時間を気にしたり疲れてしまって見る気になれません。) これについてとても危機感を感じています。それは現在留学しており、現地の人を含むいろいろな国の人と関わった時、知識の差を感じたからです。出会った人は皆自分以外の国のことや歴史、創作物に深い知識を持っていましたが、自分は本当に何も知らないと思い知らされました。無知は悪いことだと感じました。知識がある人、ない人の差は大きいものだと思います。 知識や知恵を身につけたいと思ったものの、今まで何にも関心を抱いてこなかった自分が何かに関心を抱き、知ろうと思えるのか不安です。私は自信がなく劣等感が強い性格なので自分にばかり関心が向いているんだと思います。 そして自分の意見がなく様々な人の意見を聞いては耳を傾けてしまうため、確固たる意思を伝える人に憧れます。気の向く方向に知識をつけようと意識的に出向いたり人の話を聞いたりしていますが、方向性が正しいのかわからず、不安になります。 長くなってしまい申し訳ありません。知識とはどのようにして身につけるものなのでしょうか。また、自分の意見を持つ、堂々と話せるようになるにはどのように生きていけば良いのでしょうか。 お坊さんのご意見やお叱り等、何かありましたら教えていただけますと幸いです。何卒よろしくお願いします。

有り難し有り難し 7
回答数回答 2

人生のこと、ただ聞いて、褒めてください。

私には夢がありました。 大好きな地元を離れ一度しか会ったことのない母の再婚相手と知らない場所での共同生活が始まりました。く関係は最悪。 高校にお金がかるから働けと毎月家賃を納めるためバイト三昧。それは親のギャンブルに消え、体力と精神の限界で、夢を諦め、なにもかもやめました。 最終的に元父の元に行くことができましたが元父は新しい家族を作ろうとしているところで居場所がありませんでした。 その後はお察しの通り、10代で出産離婚。 実家もあてにならず、私と同じような思いをさせるものかとただ毎日必死で働き、学び、今では母子手当を貰わずに生活しています。 それから出会った男性に、私は初めて恋をしました。 毎日楽しくて、何にでも挑戦できて、私は何にでもなれました。 彼女がいたのですが、もう好きではないので別れるとのことでした。 これで私は、彼に好きだと堂々と伝えてもいいんだと、喜んでいたのを覚えています。 しかし「婚約していた元カノにひどいことをしたので自分は幸せになれない」と言われました。 正直、両思いだったはずです。 その後もお互い仲はいいので遊んだりしていましたが、だんだん愛のやり場に困ってきました。 愛が何も形にならない、見えない、感じることができませんでした。 その焦りが表に出ていたと、今になれば思います。 最近彼が、この先の理想もない、ひとりぼっち、自殺しようとしてしまうと言い出し、私も怒ってしまい「全部自分の選択では?」と言いました。 その後文章で「気持ち悪い、もう近寄らないでくれる?」と。 生まれて初めて心を開いた人だったので、心臓が痛くなるほど衝撃でした。 言葉が出ませんでした。彼の気持ちは全くわかりません このままじゃ私を幸せにできないからと突き放したのかそれとも本心なのか。それすらも聞く気になれませんでした。 彼は両親を亡くし、独りです。 長い間愛してくれた彼女と別れてもそれが足枷になってなにもできない孤独な状態に苦しんでいた彼に憐れみを感じて「いつでも頼ってね」と後日返しました。 人と接する中で初めての感情だったので、人を愛する練習だったのかと、自分を納得させています。 私は今幸せで、これからもっと豊かになりますよね?

有り難し有り難し 37
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ