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私には「否定」が受け入れられない

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有り難し有り難し 13

抽象的なタイトルで申し訳ありません。この質問は今現在起こっている、プロゲーマーの方の心無い発言が「炎上」所属チームとの契約を解除された出来事と周囲の方達の態度を見て思ったことです。

ここで明文化するのも憚られるので、大分端折って述べますが、そのプロゲーマーの方は「人権」を軽視した発言をした。
それだけではなく以前から、世間的な正しさ(これも抽象的ですみません)から逸脱した発言が散見されたようで、それらが積み重なった上での今回の炎上、契約解除という運びになった。

そしてそれを周囲の方達は「当然だ」というような態度でいる。
私の色眼鏡を通した言葉になってしまいますが「安易にその人がそこに居ることを否定することを肯定している」

確かに、よろしくない行為を働いたことは事実です。あまり素行といいますか人格が良いものではないと捉えられても仕方ないでしょう。
そこに対して、批判を受けるところ「まで」は当然だと私も考えます。、
しかしそれが「否定を正当化する」ところにまでは行き着かないのです。どうしても。
その人が「そこに居ること」「こう在ること」を「否定」して良い理由には絶対にならない、と考えているのです。

今、私が挙げた事例と近づけて言うならば「人格」や「素行」で「否定」して良い理由には絶対にならないと考えているのです。

でも、世間はどうも、そうではないみたいです。
私の拡大解釈かもしれませんが「はっきり言って私が異常ですらある」と言った様相です。

どうしてなのか。少し考えてみました。
結果、「周りは私ほど、否定の持つ力の恐ろしさを理解していないのでは」「否定を否定で返すことの恐ろしさ、虚しさを知らないのでは」と言う結論が出てきました。あまりにも周りを軽く見た解答になってしまったのですが……

でもそれほどまでに、私は「否定」ができない。できないし、「否定」を「向け合う」行為を容認できない。しかしそれは正常ではない。私は世間が間違っているとすら思う。

……正しいのはどちらでしょうか。また、そう考えることの意味はどこまであるのでしょうか。

2022年2月20日 2:34

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「公共の福祉」と「言論の自由」のせめぎ合い。

他人の存在を否定してはいけない。「否定の持つ力の恐ろしさ」
人格否定発言に対して、発言者の存在の否定で返してしまうと、同じことをすることになる、しかも正義感を振りかざすことになる。
どこかの段階で「否定する」ことをやめないと、否定し合い合戦が延々と続いてしまう。など、ご相談者さまのさまざまな懸念について、私なりに理解したつもりです。
 
確かにプロゲーマーの方自身が、このトラブルでプロゲーマーを辞めることだけでなく、ご自身の存在まで否定されるようなこと、言動などは、あってはならず、またそのようなところまで影響しかねないことが「否定の持つ力の恐ろしさ」だと思います。

一方、プロゲーマーや芸能人などの影響力がある人が、身長や体のサイズなどで否定をする発言をしても、謝罪もしなくていいし活動休止や契約解除などの罰則が何も課されない状況を考えてみます。

そうすると、影響力のある方の発言が、何も対処せず許されるならば、それ以外の一般の人も当然に許されるという風潮が広がってしまいます。今回の問題だけでなく、不倫や反社会的存在との交流など、影響力のある方の言動がことさら問題とされるのは、まさしくその「影響力があるから」こそです。

したがって、「言論の自由」は誰にでもあるのですが、「公共の福祉」を損なう場合は、謝罪など何らかの対応が求められることは正常なことだと思います。

しかし、難しいところは、その「公共の福祉」があいまいで、時代によって変化したり、発言する人によって求められる対応が違ってしまうことが問題です。同じ不倫でも人によって扱いが変ってしまうこと。政治家などは見逃されてしまうなど、影響力のある方でも弱い立場である人ほど、SNSやマスコミなどが全て否定しかねない雰囲気を作ってしまう暴走が危険です。

トラブルを起こした人を、勢いに任せて全てを否定する現象を問題視し、謝罪などをして以後改善するなどの対応をすることで許される、また、そのことが誰にでも平等に公平に保証されることがあるべき姿だと思います。それを目指す上で、現在はまだ過渡期です。

「公共の福祉」と「言論の自由」のせめぎ合い。そのあり方をつくっていくために、私たち一人一人が考えていかなければならいないと思います。

2022年2月20日 11:25
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有り難し
おきもち

1971年生。岐阜大学教育学部卒業。医療法人に就職し、医療事務、経理、総務...
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拝読させて頂きました。
あなたがおっしゃることとても素晴らしいと私は思います。その人を否定すればまた同じような否定が繰り返されてしまいますからね。正義を振りかざしてその人の人格や存在や人権を否定したり抹殺してしまうことは許されることではないと私も思います。
ですからその方自身が活動なさっていく自体ことは問題はないのではないかと思います。
ただその方が発信した内容については責任が問われます。その方の発言や主張によって大変傷つく方々や著しく人権を否定や侵害される方々はおられるでしょう、その発言はやはり認められないことでしょう。

以前にもオリンピックの開催に当たり主催者や演出者が著しい人権侵害(例えば過去自分のいじめや嫌がらせや差別行為を行ったこと加担したことを開き直って発言した等々)の発言や行為が繰り返さました。それはやはり許されることではありません。その場で謝罪をしたとしてもとても傷ついた方々がおられたでしょうし、その方々がご自分の意志で人権侵害をされていたことを見て見ぬふりをすることはとても問題ですからね。

「言論の自由」によって「人権侵害」すること、人を否定して傷つけることはやはり許されることではありません。その様な言動は悪意や悪言や悪業であり深い罪であることに変わりはありません。
その発した悪意や悪言や悪業には自ずとその結果が訪れるものです。その結果がもたらされることに対してその発信した当事者が自分の考えや言葉や行いを本当に正直に振り返って見つめ直す機会を与えられることにもなりますからね。

いずれにせよ否定から否定では負の連鎖はとまりません。誠実のものごとの動向や在り方や考え方や言動に対して私達は注意を払っていくことが必要でしょうし、誰に対してもいつでもどんな状況にあってもれぞれの人権を尊重し合うことが大切ですものね。

2022年2月20日 13:17
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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

大変お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
色々と整理する時間が必要で、ひとつひとつ刻んでいこうと思います。
ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ