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風俗通いやめてもらえない

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有り難し有り難し 27

同居して8ヶ月のパートナーのことです。
なんだか怪しくてスマホを見てしまい、再び風俗を利用していることがわかりました。付き合う前にも風俗を利用していました。

同居して4ヶ月経ったぐらいに風俗を利用していることがわかり、一緒に住んでいるのに風俗利用が許せずにやめてもらうように話し合って、彼も同意のもと誓約書(二度と行かない。破った場合は慰謝料を払う。のような内容)を書きました。
その2週間後ぐらいには再び風俗を利用していることがわかり、その風俗嬢の子と外でデートもしていました。
とても失望し、現在家を出ています。

風俗が原因で前の奥さんとも離婚しています。彼は風俗依存性だと改めて感じました。彼との生活がとても楽しかったため、なんでこうなったのか、彼のことも好きな気持ちもあるため彼との今後のことが決めきれずにいます。風俗依存のことを受け入れて苦しみながら今後一緒に生活すること、ここはきっぱりあきらめて新しい生活に踏み出すか。
長い間婚活し続け、やっとみつかったずっと一緒にいたい彼でした。今後どのようにしたらよいでしょうか?
どうかお力添えをお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

振り返ることなくバッサリと。断縁バズーカ砲を仏っ放す勢いで。

昔そういう女性からご相談を受けたことがあります。
交際中なのに彼氏がおフーゾク通いのおFOOL族。
人間性、人道主義がないのでしょう。
愛がないのでしょう。
あるとしても自己愛なのでしょう。
カッコよく見えるとしたらそういう愛に引っかかる異性を求めるための見せかけの愛なのでしょう。
そういう人間心理を「餓鬼界・畜生界」の輩と、昔の人は呼んだそうです。
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2021/04/13/17452
そういう男性とは知らずに付き合ってしまった。
でもよかったです。
そういう人だったと早い段階でわかった。
好きと家庭的とは違う。
刺激と家庭的とは違う。
いい男、いい男性、イケメン、経済力がある、頼もしいのと家庭的とは違う。
そこであなたも学びとすればいいのです。
言葉はどんなにきれいごとを言おうが悪意は悪意。裏切りは裏切り。不誠実は不誠実。
本人もあなたに対する愛がないとわかっていてやっているのですから明日荷物をまとめてお別れする方がよいでしょう。
耳を貸してはいけません。
上手な被害者ぶった言い訳や、正当化が始まる前に上手に病んだフリでもしてそーっと上手に別れること。
もともとすべての女性はそういう男性とはかかわってはいけないのですから。
貴女は答えがもう出ています。
自分でもわかっている。
旦那への失望感。相手への失望=現実を知った。思っていたのと違ったというだけ。
あとはもったいない感があるだけ。
今まで何だったのかというもったいない感と。
私がこんな男とは知らずこんな相手に時間をかけてしまったという「ああ、時間返して。」というもったいない感。
大丈夫では。まだ間に合います。
良かったと思ってください。
失ったものはないのだと思うことです。
お子さんがいたらもっと大変な状況に追い込まれていたでしょう。
変なビョーキをもらってうつされたらもっと冗談じゃないワという状況。
一応相手が変豹変する可能性も考えて上手に内緒にキレイに引っ越しをしましょう。風俗だろうが何だろうが不貞行為は不貞行為で裏切り行為は裏切り行為ですから、これっぽっちの情もかけてあげてはいけません。
貴女の自立とあなたの未来のお子様のためにも潔さを菩提心としてバッサリ断ち切りましょう。
アクション映画のように振り返ることなく。💣

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早々にお言葉をありがとうございます。自分を俯瞰してみるようにして考えています。現状の受け入れ、自分の気持ちの整理が今はまだついていない状況です。1週間経ち怒りはおさまりつつあります。自分のことなので自分で決めなかればならないんですが、第三者の方の意見もお聞きしたかったです。とてもお言葉が響きました。まだ決断できずにいますがこのままではいられないので動き出さねばと思っています。ありがとうございました。

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