働くということ
私は一昨年、学校で講師として働いていました。一年間はなんとか続けることができたのですが、学校という場の閉塞感を強く感じたり、不安を感じながらも「教師」として振る舞い続けねばならないストレスなどが重くのしかかり、契約の更新をせず、職を辞しました。
それから現在までの一年間は、アルバイトをしながら、早く正社員にならねばと焦り、沢山考えましたが、進むべき道筋を見つけることは出来ませんでした。
私はどうしても、やりたいことやプライドにこだわってしまいます。教師はその両方を満たしてくれるものでしたが、それ以上の苦しみがありました。とてもおこがましいことですが、それ以外にはどうしても、惹かれる仕事が見つかりませんでした。
やりたいことが見つかれば、突き進める性格ではあると思います。教師としての一年は、どんなに心の内は乱れていても、生徒たちにいかに興味を持って貰えるか、知識をつけるにはどうすべきか、生徒の気持ちを知るにはどうすべきかを考え続けることは怠りませんでした。(仕事としては当たり前かもしれませんが)
自分が幼稚であることは、嫌と言うほど自覚しています。私の言っている事は甘えにしか聞こえない、と思う方も多くいるとは思います。しかし、自分を変えることはとても難しいことでした。自分を捨てて、興味のない職場で数十年を過ごすことは、何処か人生を諦めたように感じてしまいます。
このまま何も出来ず、社会から疎外されることが怖くてたまりません。ご意見をご教示いただけると幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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こんにちは。
文面からは、「教師」の仕事が最も「惹かれる仕事」であり、これまでも、そしてこれからも唯一の仕事である。そのお気持ちが伝わってきます。
おそらく、一年間非常勤講師として勤められたのでしょう。「契約の更新をせず、職を辞し」たのは、色々理由があるようですが、私が一番気になったのは「教師として振る舞い続けねばならないストレスなどが重くのしかかり」という部分です。
あなたは、「教師」として最善を尽くしたのだと思います。「生徒たちにいかに興味を持って貰えるか、知識をつけるにはどうすべきか、生徒の気持ちを知るにはどうすべきかを考え続け」た、とありますから。
では、ここであなたに考えてほしいのは、その最善を尽くしたことで満足出来たでしょうか。ご自身で満足できた部分、出来ない部分もある。きっと上手く行ったことも、行かなかったこともあるでしょう。見直すべきところもあったと思います。生徒の反応があった、なかった、結果にほとんど反映されないことだってあったと思います。
あなたは、「プライドにこだわ」る性格だとご自身で書いています。あなたが考えた「教師」として一年間考えた工夫や配慮は、様々な悲喜こもごもの結果があったと思います。ただ、それが目に見えて自らの「プライド」を満たすほどの結果が得られなかった、そういう手応えのなさ、落胆が「職を辞」すという行動につながったのではないでしょうか。
「教師として振る舞い続けねばならないストレス」とは、世に聖職者と言われる人の言動が常に公私で注目されているという重圧もあるのでしょう。ただ、あなたは「教師」としての自分に失望した、自信を失ったということが最大の理由だったのではないでしょうか。
一年間、というのはやはり「教師」という職務、役割を理解するには短か過ぎるように思います。まだ、あなたは「教師」の入り口に立ったばかりなのだと思います。私にも覚えがありますが、自分の役割に不安を覚えた時は、常に努力をする方向にこそ力を振り向けるべきです。
才能とか、自信とか、「プライド」などよりも、「教師」として踏みとどまること。地に這いつくばってでも経験を積むということ。それは、5年、10年単位で考えるほどの長丁場ですが、その日々の中でいつかあなたは頂上に立っている自分に気がつくことが出来るでしょう。
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質問者からのお礼
釋 悠水様
ご回答本当にありがとうございました。
おっしゃられたように、私は教師という仕事にまだ惹かれているのだろうと思います。
ただ、学校という場は私にとって、毎日沢山の苦しみを感じる場であり、安らぎを感じる瞬間はありませんでした。
真摯に回答していただいたのに、もう一度教師として働くことを前向きに捉えられていないのは本当に申し訳ないと思っております。しかし、いただいた言葉は大切にしていきたいと思います。ありがとうございました。