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雨と一緒に流されたい

回答数回答 1
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すみません。
特に深い意味はございません。
ただ、誰かに言いたかっただけでございます。

おかしな話かもしれませんが。
雨を見ると、私も一緒に流してほしいと思うことが多々あります。
身体も、心も、先の未来も、今の不安も、あの後悔も、全てを流して自然になるのです。
生きるために死ぬこの世界で、ただ死ぬことを待つよりも綺麗でありたいと、思っているのです。
そして、その後のことを、想い巡らせているときが、唯一私が自由であるときなのでしょう。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

道元禅師の道歌 ⛆

素晴らしい感性です。
わたしも昔昭和の古い加湿器を見ていた時に飽きずにいつまでも眺めていたいと思ったものです。滝を見るたびにいつも同じようなことを思い起こします。
事実が教えてくれることこそ最高の浄化のみちびきです。
あなたのその雨に洗い流されたいという心理は仏法そのものです。
何故なら人間は本当はいつでも雨が降っていても降っていなくても「法」という雨に濯がれている。甘露の法雨というあらゆる苦しみを洗い流してくれる「無垢清浄な今の事実」という滝、雨、法相によって全自動浄化されているからです。それを脱落身心・身心脱落といいます。

「きくままに また心なき 身にしあれば 己なりけりの軒の玉水」道元禅師

或いは無常。あるいは空というのです。人間は誰でもいつでも「空じられている」「空ぜられている(自分がやっていないけど前の事から救われている)」のです。

それはどういうことかと言いますと、これを読んでいただいている時に、もう冒頭の句は洗い流されています。
今朝、頂戴したご飯の事も忘れています。昨日起こった事、昨日見た景色も浄化されています。心の中では気になっちゃうかもしれませんが、誰かから言われた好ましくないことばも本当は洗い流されているはずです。その洗い流されて今はもう、どこにもない=前の事から浄化されている=更新されている身心であることを自覚することが仏法の要点です。

「きくままに」
雨の音がこの身心をピチョンピチョンと今の事、今の音として、ただ聞こえている。体感している。

「心なき身にしあれば」
私という意識なしに雨音がこの身心を濯いでくれている。

「おのれなりけり」
それが人間すべて、万人すべての真実の自己の様相である。

「軒の玉水」
今、このわが身が触れている事がそのまま自己の真実である。

わたしたちの今の目の前の世界というものは願うと願わざるとにかかわらず、とどめておこうと思ってもそのことは常に全自動浄化機能、全自動更新作用によって永遠、永久に「真新しっぱなし✨」なのです。

あなたのその感性と同じ方が800年もの昔に上記のような句、道歌にして説いてくださっておられます。
どうか、この道理・真意をあなたの身心の上で明らかにされて、人々のこころをあなたの発するあなたの言葉、雨音、法音ですすいであげてください。🌊

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

この言葉足らずな文章をお読みいただきありがとうございます。

正直に申しますと、まさかこのような優れた返事を頂戴することになるとは思ってもいませんでした。
私は、よく考え方が変と言われるものですから(笑)。
大変勉強になりました。

ありがとうございました

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