hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

夫の不倫後、今後について

回答数回答 1
有り難し有り難し 4

何度かご相談しております、夫の不倫の件で。
不倫発覚して、家を出て別居し半年が経ちました。不倫の他にもクレジットカードでの100万単位の多額借金を2度しています。

怒りは時間とともに薄れるものなのですね。怒りはないのですが、今後夫と離婚かやり直すべきか…で悩んでいます。
離婚届を送っても、夫は絶対に離婚したくない、戻って来てほしいとのこと。GPSつけたり色々制限すると行って実行しだしてきました。半年会っていなかったので、会ったら自分がどんな気持ちになるかと思い会ってみたらやはり夫が好きで、会ったら楽しくて・・・でした。しかし、これからのことを考えるとまたされるのではないかという不安があり、頭と心が一致しません。両親も周りも戻ることには反対です。何度もやる人は絶対治らないとSNSでもみんな言っており、心を優先させるのか、どうするか悩んでいます。
そんな夫も、なんかのほほんとしてるように見えて、すぐに引っ越して戻ってきてと懇願してきません。このままだとどんどん時が過ぎてゆくし、心が決まるまでゆっくりしていていいのでしょうか。
実際、住民票…やら何やら…不便をしてるし、両親もこのままなのかと言ってくるしで、焦りもあります。40過ぎた男性は変わることはできるでしょうか。

夫が同意してくれれば、離婚でいいのですが、嫌だと言われたらこのままです。

アドバイスを欲しく思います。
よろしくお願いいたします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

条件つきの復縁

オスのショーモナ性はちょっとやそっとで治らないにしてもそれもどんな言い訳を使用が本人のエゴ。本人の身勝手。本人の選択。本人がやろうとしてやったわけですから言い訳に耳を傾けてはいけません。
誠実さと愛を優先させればあなたを裏切ることは愛でも誠実でも何でもないわけですから、それを約束させればいいでしょう。それでも浮気するならわかれればいいでしょう。
人生は何のためにあるのでしょうか。
お互いが限られた時間。
それぞれが好き勝手に過ごす為であれば一緒になる必要はありませんよね。
ご主人もあなたが好きだという言葉が本当なのか?本島と言えるのかを実証させる必要がありましょう。あなたに対しての尊厳をみとめて、裏切らないようにすることは当たり前のことです。だから、ウソをついたり見栄を張ったり借金をしてまで自分の我欲の為にやろうとすることはあなたに対する愛がウソということになる。 よって、復縁なさるにしてもあなたを裏切るようなことをしないということをきちんと約束させましょう。
人は幸せになるために存在しています。
幸せになるための権利があり、それを脅かされることはあってはなりません。
彼にもそれを理解させる必要があります。
貴女の幸せを守るためにも浮気やあなたの嫌がることをしない。
彼があなたを捨ててあなたを裏切ることは彼自身の幸せを否定することになること理解させるべきです。言葉には責任を持たせるべきです。綺麗ごとやいいかげんな約束ではなく、誠実さ、信念、誓願を持つべきです。
そしてお互い伴侶としてお互いの人間性が向上し合える関係性を大事にするべきではないでしょうか。
仏教をはじめキリスト教でも結婚の際には誓願、誓いというものがあるはずです。
それは形式的なものではなく、お互いがお互いを向上させ合うべきものでもあるのす。
もし復縁をなさるのであれば、私的な欲望よりももっと大切な価値が何であるかをお互いに話し合うべきではないかと思います。逸れの為に進んでいくということがあればお互いが良い伴侶となるのではないかと思います。
男性は言葉よりも行動で判断してください。

人として道に外れてしまうようなことはしないということをこそお金や私的な利権よりも大きな価値であるということ

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ