hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

悟ると諦めるの違いは何か。

回答数回答 2
有り難し有り難し 30

質問失礼いたします。
行く先先で虐待、人間関係、ブラック企業と色々ご縁が続く私でございます。
代わらず嫌な出来事は多く目の前にあり、
夕飯の支度をしながら
疲れたな、死んでやろうか。
などと思うこともありますが、
まあそれも無駄だな、と思いながらなんとかストレス回避をしながら楽しみをみつけて毎日過ごしています。
過去のトラウマはだいぶ歳のせいか痛みを覚えてくる事は減り、まるで他人の事のようになってはいますが、周りを助ける経験や知識として生かす事が出来るようになってきています。
そんな最近の趣味が、
人と議論することや、
思考実験的な小説を書く事なのですが、
仏門を題材に小説を書きたく思い、
悟りと諦め、
または悟りとは何なのか、が気になっているのですが、説法頂くことは可能でしょうか?
仏門が目指すところは、
楽しく生きて死ぬための基本的な知恵だと思っています。
本を読んだりしてはいるのですが、
お恥ずかしながら、今回書こうとしているのは家が寺の為そのまま住職を引き継ぎ、
まだ自分の目指すものの先が見えず悟りとは何かと悩むおそらく浄土真宗の僧侶の話です。
(浄土で救われるなら、生きて頑張る必要はないのでは?ととんだ浅はかな考えを持っている、若い住職です。)
寺を訪れにくる人たちの過去の虐待経験や家庭の問題を受け身で聴き、俗世を憂う話です。
お坊様達は、痛みだらけの世の中をどうかんがえていますか?
痛みばかりでも、人生捨てたもんじゃない、と思いますか?
できれば、このような経験を自分がした事がある、というお坊様のお話もきければと思います。
過去の事は過去、自分も他人も許し前を向く、というようなことをしてみても、やはり古傷はいたいです。
悩みではなく質問になってしまい申し訳ありません。
宜しくお願い致します。

2022年6月24日 7:10

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

煩悩の数だけ悟りがある

悩み苦しみストレスの原因は煩悩です。
悟りとは、真理に気付いて「先天的な勘違い」が解消され、煩悩が無くなることではないでしょうか。
煩悩の数は、分類しかたや数え方によっては無数にあります。
三毒煩悩とか、十結とか、108煩悩とか。
たとえ話をします。
窓際に映る木の影を幽霊だと思い込んで毎日恐怖している人がいます。
幽霊の正体が木だったと気付いて二度と恐怖しなくなるのが「悟り」。
幽霊を怖がったままで、でも幽霊はいなくなってくれないから仕方ないと我慢するのが「あきらめ(断念という意味での)」でしょう。
また、幽霊に対して勇気を振り絞って対処したり、精神を集中して恐怖を一時停止させたりは、悟っていなくても可能です。
お釈迦様やお弟子達は、苦・無常・無我(空)の真理を悟って煩悩を解消された(幽霊の正体を見破ってスッキリした)のです。
なお、諦めという字には「明らめ(真理を悟る)」という意味もあるようです。
お釈迦様が最初に発見した四つの真理を「四諦」と呼びますので。
煩悩が消えることと悟りが裏表なら、煩悩の数だけ悟りがあると言えるかもしれませんね。

2022年6月24日 12:28
{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

自分で世界の枠組みを「作る」か「気づく」か

こんにちは。亀山純史と申します。

私なりの回答をさせてもらうと、「諦める」とは、自分で世界の枠組みを作ってしまうこと。つまり、自分で世界をわかったようなふりをすること。「どうせ、この世はこんなもんだ。」という感じだと思います。それに対して「悟る」とは、世界そのものが持っている枠組みに気づくこと。「気づくこと」は、「目覚めること」と言ってもいいでしょう。

たとえば、「無常」という言葉を例にとれば、「どうせ、この世は無常だから。」という言葉の「無常」には、自分でこの世をそのようなものに仕立てようとしている感じですよね。それは「どうせ」という言葉があるからです。そして、同じ「無常」という言葉でも、「確かにこの世は無常である。」という言葉は、前者の「無常」とは違いますよね。それは「確かに」という気づきの言葉があるからです。

とてもざっくりとした書き方ですが、以上が私からの回答です。ご参考になれば。

2022年6月24日 17:00
{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
このお坊さんを応援する

「悟りとは」問答一覧

悟り体験と仏教との関わりについて

こんにちは 初めて質問させて頂きます。 私は仏教徒ではないのですが20年前に所謂悟り?のような体験をし、以来あの素晴らしい世界観が忘れられず、同様な体験のある方が居るのか知りたいと考えていました。 そのとき、私は宇宙の銀河ような広大な空間に居ました。数多の光が輝き、私はそのうちの一粒の光として存在し、すべての存在と一体感を感じて満ち足りていました。 私達の住む物質世界のしがらみや生物の本能から一切離れて2つの全く違う世界が存在することを知り、目が覚めた思いがしました。 2つの世界の存在を知り、ここには書ききれませんが、如何にこの世界での欲や争いが無意味か知り、死が怖くなくなりました。また、2つの世界を繋ぐものは何か考えてきました。 理想的には皆があの体験をして世界の構造を知れば争いなどなくなるようにも思いますが、しかし実現不可能なことも理解しています。 仏教はこういった世界を体系的に表して広めようとしているものなのでしょうか。私は自分の体験が素晴らしいと思っていますが、どう伝えてもとても他人に理解できるとは思えません。 逆に体験した方にはすぐに伝わると思います。 また、私の他にも同様の気持ちの方は居たりするのでしょうか?

有り難し有り難し 21
回答数回答 2

悟りや天国に優しさは必要ない?

仏教には、達磨大師など偏屈で冷淡な高僧が多い印象があります。自称霊能者の類にも、優しくない人がいっぱい居ます。悟りや天国に、優しさは必要ないのだろうかと非常に悔しく思います。それはきっと、私がなんの取り柄もない代わりに、「こんな優しい人を初めて見た」とよく言われるような人間だからだと思います。そう、まるで自分の唯一の強みが、天国へ行くために必要ないと世界から言われているような悲しさを味わったのです。ちなみに優しくない人とて地獄に落ちていいとは思いません、人類も動物もみんなで一緒に天国へ行くのが私の望みです。ですが、私は聡明で冷淡な人よりも、鈍重でも優しい人こそより高い天国へ行ってほしいという感想があります。ですがブッダを含めた高僧の多くが王族の出身であったりと、天国に行く人はヒンドゥー教でもカーストがあるように人柄ではなく家柄で決まるのだろうか、とも。 酷く冷淡な自称霊能者に突き放されて酷く傷ついたことも先日あったので、天国に行くために優しさが必要不可欠となるイスラム教に、2駅くらい先の寺院へ行って改宗しようかさえ思いました。ちなみに、「浄土教ならあなたも高僧以上の悟りに辿り着けるよ」と広報運動をしている人は居ました。 (実家は浄土真宗です) などなどについて、何かのアドバイスをいただけたら幸いです。これを見てくださっている優しいあなたにも幸福がありますように。

有り難し有り難し 20
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ