悟ると諦めるの違いは何か。
質問失礼いたします。
行く先先で虐待、人間関係、ブラック企業と色々ご縁が続く私でございます。
代わらず嫌な出来事は多く目の前にあり、
夕飯の支度をしながら
疲れたな、死んでやろうか。
などと思うこともありますが、
まあそれも無駄だな、と思いながらなんとかストレス回避をしながら楽しみをみつけて毎日過ごしています。
過去のトラウマはだいぶ歳のせいか痛みを覚えてくる事は減り、まるで他人の事のようになってはいますが、周りを助ける経験や知識として生かす事が出来るようになってきています。
そんな最近の趣味が、
人と議論することや、
思考実験的な小説を書く事なのですが、
仏門を題材に小説を書きたく思い、
悟りと諦め、
または悟りとは何なのか、が気になっているのですが、説法頂くことは可能でしょうか?
仏門が目指すところは、
楽しく生きて死ぬための基本的な知恵だと思っています。
本を読んだりしてはいるのですが、
お恥ずかしながら、今回書こうとしているのは家が寺の為そのまま住職を引き継ぎ、
まだ自分の目指すものの先が見えず悟りとは何かと悩むおそらく浄土真宗の僧侶の話です。
(浄土で救われるなら、生きて頑張る必要はないのでは?ととんだ浅はかな考えを持っている、若い住職です。)
寺を訪れにくる人たちの過去の虐待経験や家庭の問題を受け身で聴き、俗世を憂う話です。
お坊様達は、痛みだらけの世の中をどうかんがえていますか?
痛みばかりでも、人生捨てたもんじゃない、と思いますか?
できれば、このような経験を自分がした事がある、というお坊様のお話もきければと思います。
過去の事は過去、自分も他人も許し前を向く、というようなことをしてみても、やはり古傷はいたいです。
悩みではなく質問になってしまい申し訳ありません。
宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
煩悩の数だけ悟りがある
悩み苦しみストレスの原因は煩悩です。
悟りとは、真理に気付いて「先天的な勘違い」が解消され、煩悩が無くなることではないでしょうか。
煩悩の数は、分類しかたや数え方によっては無数にあります。
三毒煩悩とか、十結とか、108煩悩とか。
たとえ話をします。
窓際に映る木の影を幽霊だと思い込んで毎日恐怖している人がいます。
幽霊の正体が木だったと気付いて二度と恐怖しなくなるのが「悟り」。
幽霊を怖がったままで、でも幽霊はいなくなってくれないから仕方ないと我慢するのが「あきらめ(断念という意味での)」でしょう。
また、幽霊に対して勇気を振り絞って対処したり、精神を集中して恐怖を一時停止させたりは、悟っていなくても可能です。
お釈迦様やお弟子達は、苦・無常・無我(空)の真理を悟って煩悩を解消された(幽霊の正体を見破ってスッキリした)のです。
なお、諦めという字には「明らめ(真理を悟る)」という意味もあるようです。
お釈迦様が最初に発見した四つの真理を「四諦」と呼びますので。
煩悩が消えることと悟りが裏表なら、煩悩の数だけ悟りがあると言えるかもしれませんね。
自分で世界の枠組みを「作る」か「気づく」か
こんにちは。亀山純史と申します。
私なりの回答をさせてもらうと、「諦める」とは、自分で世界の枠組みを作ってしまうこと。つまり、自分で世界をわかったようなふりをすること。「どうせ、この世はこんなもんだ。」という感じだと思います。それに対して「悟る」とは、世界そのものが持っている枠組みに気づくこと。「気づくこと」は、「目覚めること」と言ってもいいでしょう。
たとえば、「無常」という言葉を例にとれば、「どうせ、この世は無常だから。」という言葉の「無常」には、自分でこの世をそのようなものに仕立てようとしている感じですよね。それは「どうせ」という言葉があるからです。そして、同じ「無常」という言葉でも、「確かにこの世は無常である。」という言葉は、前者の「無常」とは違いますよね。それは「確かに」という気づきの言葉があるからです。
とてもざっくりとした書き方ですが、以上が私からの回答です。ご参考になれば。
質問者からのお礼
お答え、ありがとうございました。本質の違いに、2年でやっと答えが出ました。
諦める事をやめて、現状を良いと思えるように努力し、心を穏やかにしようとしています。
現在の悩みについてまた聞いていただきたく思います。よろしくお願いいたします