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毒親と過ごした過去を正当化したい

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こんにちは。20代前半、社会人1年目女です。
どなたか毒親と過ごした過去を正当化する方法を教えてください…。あの過去を後悔する毎日に疲れてしまったのでこちらにご相談させていただきます。

父親は、少しでも自分の気に食わないことがあれば罵声を浴びせる人でした。私は父によく言い返していたのですが、母は「黙っていたらそのうち収まる」と反発する私を止め、父に注意してはくれませんでした。両親は世間体を異様に気にする人で、少しの汚れを気にする潔癖症でした。母は愚痴ばかり私にこぼしておりました。「すべき」「してはいけない」「みっともない」が溢れた家庭で、今思えば私はとても窮屈でした。家庭環境がひどくなった中高の間、私は自分にも他人にも関心が持てませんでした。

大学生の頃一人暮らしを始めて、様々な素敵な大人達に出会っていくなかで、ようやく両親が毒親かもしれないということに気付きました。世界はこんなにも自由なんだということを知りました。現在は、都会でとても素敵な友人や先輩と楽しく過ごしております。

しかし、どうしても毒親と過ごした過去を思い出して辛くなってしまいます。今の私だったらもっと楽しい学生時代になったのに。もっと自分に向き合い、やりたい仕事を考えられたのに。後悔ばかりが募ります。でも、当時はうちは精神的苦痛だけで手は出されないから、お金はちゃんとしているから、母は会話ができるからまともだと思っていました。
一般的に環境のせいばかりにしてはいけないということや金銭的援助を積極的にしてくれていることから、責任を親に押し付けられないのも辛いです。結局自分のせいなのか、と思うのも辛いです。甘えですが。

男に屈したくないという気持ちもあるからか、自分が恋愛するのも気持ちが悪く、なかなか前に進めません。

いいかげん、たまに過去を思い出しては泣いたり眠れなくなったりするのをやめたいです。なぜ私はもっと良い家庭環境のもとに生まれなかったのでしょうか。あの過去を受け入れて正当化したいです。もっと自分も好きになりたいです。

まとまりのない長文大変失礼致しました。どんなご意見もお待ちしております。
どうかよろしくお願いします。

 

2022年8月17日 2:04

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

未熟な親なりの教導ととらえる すべて学び・授かりと心得る

人生全ての人間が不完全で未熟です。私もあなたもあなたの親もお釈迦さまであっても当時は家を捨てて奥さんも子供も捨てた。誰もが未熟だ、誰もが不完全で、誰もがそれなりの成長ハンデ・発達障害を抱えていると捉えるべきだと私は思います。完璧な人などいないからです。エリートや国家の為政者たちが完璧だったら酷い世の中も争いも反社会勢力もとっくに無くなっているでしょう。誰もがみんな縁によって今の結果に到った。誰もが原因と縁という作用・ハタラキによって今に至った。貴女があなたの親を毒親と思うことやあなたのご両親がこれ良かれと思って自分の娘に親なりの愛情やご教導をしてもあなたはどうやらそれほど幸せでもなさそうだ、という結果が生ずる。ですが、それも一時の考え。ここで新たな良縁を自らの心に与えればそのくらい考えもすぐに善導される。より良い心へと向上するものです。
冒頭にすべての人間が不完全だということをお話しました。
そのお互いの不完全さを認め合うのです。
どんな天才さんでも家族に暴力をふるうような人もいる。
どんなイケメン・美人さんでも性格が病んでいる人もいる。
どんな聖人君子面した人でも世間知らずな人もいる。
どんなきれいごとを言う人達でも現実世界で起きている酷いことに無反応、沈黙だったり、いじめを実際に止めなかったりするものなのです。
私はこう思います。
家庭がこうだった、どうだった、ではなく、その家庭で育ったあなたがこれからその頂いた能力、力、チエ、スキル、才能…それらを使ってどれだけ自分と多くの人々をしあわせにできるか。
あなたが今悲しいなら、そのあなたのこころちゃんを幸せにしてあげなきゃと念ずるのです。人間には人間生まれながらにしみついている素晴らしい一切の人々を救う力がインストールされています。それを菩提心という。誰もが持っているのに立ち上げる人はすくない。試しに右手・左手で家の中、職場で落ちているゴミを拾うとか、汚れたところを掃除するとか傾いているところがあったら直してみてください。「できる」はずです。
それを無我・無心の力という。無条件の力と言ってもいい。実際にやってみて下さい。
この見知らぬオッサンに言われて今日あなたが今申しあげたことをやればそこからあなたは変わる。毒親がどうだとかどうでもいい。親も救える。人も助けられるのです。全ての存在は互いに教導しあっているのです。

2022年8月17日 10:01
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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