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来世は他人がいいです

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私は両親が嫌いです。

毎日のモラハラ、過干渉、価値観や要望の押し付け等々に悩まされてきました。死にたいと思うことも多々ありました。

子供の頃は自分が至らないせいだと思い、自分の行いを改善するように努めてきました。しかし、大きくなるにつれて自分ではなく両親の方がおかしいと思うようになりました。

今の両親で良かったと言える点は、自分がされて嫌なことは人はしてはいけないという反面教師になった点だけです。

母親とは長年衝突が耐えませんでしたが、病気をして体がめっきり弱ってしまい、現在私がテレワーク中というのもあり、一時的に同居しています(私の籍は現在実家ではないため、出ていこうと思えばいつでも出ていける状態です)。病気をしたことで、昔よりもだいぶ丸くなりましたが、それでも一緒にいると疲れることが多々あります…

一方、父については、私が一人でいるのが好きなため友達を作ることに関心がないことついて母親と一緒に詰ってきたり、子供は家事や介護を引き受けて当然という態度を全面に出してきたりしたため、亡くなった現在でも悲しいとはあまり思えません。

もし来世があるのだとしたら、現在の両親や親族一同とは赤の他人がいいです。
赤の他人になれるのであれば、両親のことは全て許します。

強く願えば、現世で善行を積めば、願いは叶うのでしょうか?
下らない質問ですが、お答えいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

2023年5月24日 1:51

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

親から言われる言葉の自己のリアクションに注意

(´-`*)
親御さんというのは完璧でも聖人君子じゃない。伝え方も上手とは限らんもんです。戦後大変な中での昭和教育ですもの。だから求める側と与える側のすれ違いうことがどこの家庭でも起こる。大事なことは親は子供にこうなってもらいたいという心理があって、人生経験上アンタこうした方が良いよ♡ということから時に厳しく言ってくるというのが悲しい現実。
まずは、親にも高い理想を求めないというスタンスをお大事に。
出家とは頭を丸めるということではなく、あなたが親御さんとは独立自立分離別存在であり、それぞれの尊厳ある存在と見極めた上で公的に慈悲心高めに接するということが大事でござる。🐒
同居をするということは家族・他人さまであっても、相手が詰ってくるにしても、まず誰とでも友達になれる柔軟姿勢を身につけましょう。そのためにも坐禅をして我を滅する。心の自由さを得る。我を滅するにはモノと一つになること。環境と完全シンクロすること。動物園に行って動物が逃げない処し方をするように内なる仏と同周波数化。自己と環境、トリマキ、誰とでも同和同化な姿勢を自己スキル人生スキルを高めるために(# ゚Д゚)持とう!と志しましょう。アタシに必要なの…、それ!とばかりに。
来世は今から一秒後はみな来世ですよ?死後の世界とかあっちの世界に行かないで「今から、アタシ、一秒前のアタシから離脱、解脱、フレッシュ、新鮮、むきたてタマゴちゃん🐣なり」と念じ自己力UP。一切は自分も親も含めて全てが自分のいるところから4万キロメートル離れた目の行き届かないところ(世界一周・背中側)の別フレッシュあり方をしていると見極めることです。同じと思っているから自分の思いに詰られる👊のです。仏の目、健全健康な思考👁はたとえ目の前に毎日猛獣、巨人がいようとも冷静に対応。
そもそも両親も仏教的にも赤の他人様。DNA的には近しいというだけ。それぞれ天地に一つの最も尊い個性として尊重すればよいだけです。
善業を積むという志があるならば、この自己心理活動の中で自己を苦しめる震源地をこそ問題にする。親もキョーレツかもしれない。だけど、それでも上手にかわせる人はいないわけでは
ない。ならばこそ、この打たれ弱い心をこそ見つめなおすのが理知的な仏教的姿勢です。
あの人あのことを気にするたびに乱れるこの私の中の心をこそ来世(一秒後)今新たに変える。

2023年5月24日 9:11
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご返信ありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。
この2週間ほど母や他人への受け止め方・対処法についてずっと考えていました。

親は人間であるため間違うこともあると思います。そして今までの経験に基づいてあれこれ言うのも分かります。
「そうだね。私のためにアドバイスしてくれてるんだね。そういう考え方や意見もあるんだね。」といった感じで相手に感謝し、受け止められるところは受け止めていこうと思います。反対に受け流せるところは受け流していこうと思います。まだまだですが、実践してみたところ、ちょっとだけ気持ちが楽になりました。アドバイスを頂いて本当に良かったです。
また、「猛獣、巨人がいようとも冷静に対応」ということを受けて、両親のことを人間ではないと考えてみたことがあります(かなりひどいとらえ方ではありますが・・・)。母親にイライラしたときに「人間ではないのだから、こういうことを言うのは仕方ないよね」といった感じで一度だけ試してみたところ、いつもよりイライラせずに済みました。

今から1秒後は来世だなんて考えたことがありませんでした。まさに目からうろこでした。常に生まれ変わっているということですね。今までは、人生において自分が新しく生まれ変わるなんて何かを成し遂げたときや困難を克服したときくらいで滅多にそんなことは起こらないと思っていましたが、そうではないんですね。いくらでもチャンスがあるし、気の持ちようで新しい自分になれるんですね。小さなことから始めていきたいです。
また、今の両親・親族が次の人生でも付きまとっている訳ではなさそうなので、ほっとしました。

まだまだ至らない自分ですが、少しずつ変えていくことが出来そうです。人生において少し希望が出てきました。
本当にありがとうございました。

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