仕事が続かない50代ひきこもり
私は仕事が長く続けられません。
大体1年半くらいで投げ出してしまいます。
いろいろ調べたところ私は自己犠牲の傾向があり、
俗にいう「努力」の意味をはき違えて生きてきました。
「社会貢献」「やりがい」などキレイな言葉がありますが、
被雇用者にとっては、雇用者が「低賃金で労働を搾取」するための魔法の言葉でしかありません。
と、判ったところでたどり着いたのが、仏教の「中道」なのですが、
あまりにも曖昧すぎて、何をどう考えて行動して良いのかわからないです。
試しに自己犠牲を止めて「出来ないふり」「気づかないふり」を続けたところ、
自分を抑制することにエネルギーを消費し、逆に疲れてしまいます。
そればかりか「気が利かない人」「言われたことしかできない人」になってしまいました。
多分、中道というのは「自分がどうしたいのか」という考えが基準になると思うのですが、
損得の基準といいますか、私にはその軸が全く無いのです。
なので「やるからには全力」「中途半端なら無駄」という極論になります。
いずれにしても疲れるので、なんとかしたいです。
また、一言を聞いて、2手3手先を考てしまう思考(妄想)を止める方法ってあるのでしょうか?
一応、自分なりに中道を解釈し「出来ないふり」「気づかないふり」は試してみましたので、
それを前提に今後「何に努力すれば良いか」を教えていただきたいです。
小さな希望でも見えたら最高です。
ご教授お願いいたします。
平等ではなく公平。 承認欲求。 大金ではなくても、搾取されることのない見返りが欲しい。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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中道の応用でしょうか
ご相談拝読しました。
中道とは仏教の根本的立場です。
ですから、「頑張り過ぎと頑張らないのちょうど間の良い具合」とかいう、世間的意味では本来的にはありません。もちろん、そんな風に応用して日常生活に活かすのもけして悪くはありませんが。
一応紹介すると、中道とは快楽主義と苦行主義の偏った生活態度を離れ、それによって悟りの智惠を完成しようとする道であり、八正道(ググってみてください)に代表されます。
断見(死後は無に帰する)や常見(生命の主体である我は永遠に存続する)といった偏ったものの見方を離れ、何の執着ものなくありのままにものそのものを観る境地です。
イナリさんの課題は仕事に対する態度選択であると思います。つい頑張りすぎてしまって気がついたらしんどくなって投げ出してしまう、あるいは逆に全然頑張らないで見ても今度はやりがいがない。
でもそれってイナリさんだけの問題でしょうか?職場・職種の環境の問題も大きいと思います。やりがいをもって懸命に取り組んでもきちんと労働管理してくれるホワイトな職場なら自ずから問題は解決されるようにも思います。
もちろん現実的には社会は甘くないので、そうした職場が希であるという課題はあるのでしょう。それでもまずはきちんと労働環境を法的に適正に管理している職場を探してみましょう。
その上で、あとは自分が仕事にどう臨むか。
「出来ないふり」「気づかないふり」ではなく、今まで通りやりたいように努力してやってみましょう。
でも今までと違うのは、八分で止めるというか、まずは自分がやるべき事に集中して、もう少し余力がある時だけ気がついたこと、求められた以上のこと、他者の手伝いに取り組めないでしょうか。自分だけで判断できないのなら、他者とのコミュニケーションを大事にして、自分の仕事量を客観的に尋ねてみては?なんでも自分だけで判断するのは結局自分の傾向にハマッていきます。
労働環境の他に仕事が続く大事な要素が円滑な人間関係です。今までどうだったか分かりませんが、この人たちとなら一緒に頑張って楽しいというご縁に恵まれるといいですね。
結局ありきたりな回答になってしまいましたが、仏教的にも世間的にも大切なことは自分という枠を離れることだと思います。何かヒントになれば幸いです。
質問者からのお礼
吉武様
相談に乗っていただきありがとうございました。
心から理解し納得したわけではないのですが、なぜか考える事を止められました。
生まれてから今まで、誰かに話を聞いてもらって心が落ち着くなんて事は殆どなかったのですが・・・
でも、躁うつなので明日はまた考えるかもしれませんけどね。
とりあえず、前向きにもネガティブにもなっていませんが、感謝しています。
本当にありがとうございました。
この縁を取り次いでくれたご先祖様にも感謝します。
それでは・・・