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手の震えが止まりません

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先月くらいから、職場で手が震えるようになってしまい、職場に行くのも怖くなり、退職しました。退職すれば気も休まり、落ち着くかと思いきや、ずっと手の震えの不安が頭に残り、毎度の食事が怖いです。家族との食事でさえ怖い状態で、今、外出して友達と食事をするのは絶対に無理!と、今までの自分ではありえないような恐怖感に支配されてしまい、本当に苦しいです。
朝起きた途端にその不安が頭をぐるぐるし始め、一日中不安が取れません💦
退職して家にいるため、悩む時間があるというのも原因だったり、心療内科では適応障害かな、と言われたので、今までに比べて、緊張感が強まってしまっているのかもしれません。
自分のこだわりなのですが、薬を服用せず、何か捉え方や考え方で改善できたらいいなと思います。
こんなことで囚われてしまっている私に何か生きる希望となるお言葉をどうかいただきたいです!よろしくお願い致します!

2022年10月12日 7:23

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

何かに染まる影響される脚色される前の本来の己=MY仏にであう

私も学生時代、手の震えが酷かったとですたい。
学校のアルバム・文集でクラスの「◎◎が凄い人」の欄で「ふるえの酷い人 第一位 丹下君」とNO.1認定された程の「選ばれし勇者」です。(実話)
私の震えに勝る人はいません。私の振動によって地球と太陽が丁度いい距離が保たれていた位です。(嘘)
今は震えてませんが乗り越える方法を記しておきます。
大学時代に震えの酷い人「朋友」に巡り合うことが出来ました。
「同志よ!」「おまへもか!」彼の名はブルータス(仮名)。
ビンボーな私に大家さんの孫パワーで世田谷で割安アパートを貸してくれた恩人です。お互い震える手を見せ合いながら「どうしてこんなになっちゃうんだろう?」とプルプル震える手でタバコを吸いながら痛みを共有し合った仲です。共感者大事。大学時代も修行道場に行ってもプルプルは治らず、尊敬する老師の元で参禅している時に手の震えが止まったとです。なぜか。
そこの坐禅会は「坐禅をするというよりも、この自己がどうなっているのか?この自分というものが元々はどうなっているのか?を明らかにする」という会でした。むしろ、それこそが本当の坐禅、仏教なのです。私が居た別の修行道場はストイックで古参から常にマウントを取られ落ち着かない。この自己を明らかにする道場というより曹洞宗宗門ルールにのっとったガッチガチ👹鬼規則にしばられて宗門YESマンロボットを養成する所のように感じたこともありました。
何を言いたいのか。人間、どこにいても「何かのルール」に縛られていると体が反発をするのでしょう。世間でも修行道場でも、要は当の本人が自己を見ているかどうか。人の目を意識しながらの修行であれば修行にならない。この自己というものに徹底的にむきあう、みつめる、親しむと向かう所が無い。コレカラナニカヤラナクチャ!が…ない。脱マイルール。坐禅ってぶっちゃけゴチゴチの座禅クサい座禅をすることじゃないんです。脳みそ、心、この自己がライトでオープンであったかくて、やすらかでおだやかになることなんです。
立場も義務も責任も捨て只の人になることです。人は本当に自分がどうあればいいか?を徹底的に追求すると一休さんや道元禅師のように仏教組織であっても人間ルール臭があれば離れて自分に向かう。自己の本来に出逢えれば震えが止まるどころか、今まで震えていた環境でも大いに活動できるようになれます。

2022年10月12日 14:47
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

すんごく安心するお答え、ありがとうございます😭🙏なるほど!!!!と腑に落ちました。私が震えてしまう時は、震えたらどうしよう、嫌だな、恥ずかしいな、とズバリ人目を気にしている時です。
本当の自分とは、自分の生きたい生き方をここで見つめ直し、明るく楽しく、震えが気にならないくらいに、生き生き生きていきたいです!
ありがとうございました✨

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