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思い切って投稿させていただきます。

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有り難し有り難し 39

何から話を始めていいのかわからないほど混乱しています。
精神科担当医からは否定されていますがおそらく私はアルコール依存症であり、自分も、家族を含む他人も内的にも外的にも傷付けることが数多くありました。
かつて外傷を負わされたほどのいじめにあっていた経験から、家族親族、周りから許されているような感もあります。が、それが屈辱的でもあります。
哲学書を読み、仏陀の言葉を読み、禅道場に入門し、居士禅ではありますが道号もいただき、ただこれは本当の修行ではない。いっそ全て捨てることができたなら本物なのか、フラフラしています。
近頃、来月、私は叔父になります。
障害年金ではなく、真っ当に働いて稼いだお金で、いずれお年玉をあげたく思います。
ただ、それまで私が生存しているかどうか、かなしくてしかたありません。
もうしわけないのですけれども、誰でもいいから助けてください、というのが、いまの私の本心です。

2022年10月20日 16:19

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏陀は「オレがオレが」という意識をえらばない

人間自分の信じたいことしか信じないところがある。
これをわかるまで真言のように何回も念ずることです。
それがわからないと人の言わんとすることも曲解する。
真に清浄、正常、安らぎ、シラフ、健康、健全、聡明さを求めるのであれば、人間の「天然の働き」を重んじることです。そこを般若ともいう。
「退歩」を学ぶという姿勢です。
「進歩」や「対処」をするのではない、という手法です。
「オレがこうした方がいいから、こうする。」ということは大体スベる。
それで結果、幸せになってない場合が多いでしょう。
禅の修行でもそれがいつも邪魔をする。
居士大姉、管長になろうが、オレがオレがのガを捨てきれないと自分を優先する。自分の思ったことを優先する。自分がこうした方がいいということを優先する。すると例えば鬱の方でもいくら薬を飲んでも治らない。薬にも反発して「わたくし」をやろうとするからです。
薬や酒も無理矢理、今の状況を変えようとしたがる心理も、一度手放すべきなのです。
川の流れがあるのに「この流れ、とまれ…(# ゚Д゚)」(無理無理)という現状を変えようとする心理みたいなものです。そういう心理が人間には無意識にちょくちょく起こるようです。そういうのを坐禅したり、自分の心理を見つめて、出しゃばりモグラを鎮める。
優先順位は薬やアルコールではなく、自分自身をそういうものに頼らんでも大丈夫だった自分を取り戻すことのはずなのです。そうでしょう?なのに、そこに向かわんとするのに薬やアルコールを頼りとしている…(ここをきちんとみつめて向き合う)という間違った選択をしている自分に気づくのです。気づけないと他の選択を取り続けてしまうのが、人間の悲しい心理なのです。
ホントに甥っ子がかわいかったら、そっちを選択しないはずだもの。にんげんだもの。でも、言い訳しない人間を目指す。
本当に選択すべきことは、あなたが薬や酒に依存せんでもいいようになることであり、甥っ子さん、姪っ子さん、我が子にもお年玉をあげたり、面倒見をしてあげられるようになることです。
その為にも、大人、年長者、人生の先輩として「ああ、おれもしっかりしなきゃいかんな。」「ただ、お小遣いをあげられるというだけではなく、大人として自分の心をしっかり統治して、おかしなことをしないように自分を導いてあげないといけないんだなぁ」と自分を励ますことも大事です。

2022年10月21日 6:24
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

苦しみは無くならない。それが救い。

生きているかぎり苦しみは無くなりません。
ただ、苦しみの形が変わっていくだけ。
毎日毎秒、何らかの苦しみがやって来て、それへの対処(宿題)が毎秒毎秒やって来ます。
ですが、「宿題があるのが普通」
「今できる範囲で宿題にとりくめばそれで合格だ。満点を取る必要はない。」
と、苦しみ・宿題との共存を受け入れれば、その受け入れた精神状態の中に救いがあるのかもしれません。
一切皆苦という真理は、絶望ではなく、「大丈夫、あるがまま、お互い様」の平安な気持ちにつながる救いなのです。

2022年10月21日 12:58
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

丹下 覚元様 
数年ぶりではありますが、恥ずかしながら「何が禅者だ思い込みのドツボでとっくに脳味噌とろけてるアレな人 と思ってはいたのですが 全くそのようではなさそうで
、それどころか長年のそれ、で培われてきたんですよね?
いや長年にわたる修めかたによるものなんですよね
それはそれできもちわりいんですけど

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