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母の記憶

回答数回答 1
有り難し有り難し 18

母は認知症だったのですが、亡くなった後に楽しかった事や嬉しかった事、…悲しかった事など記憶を取り戻せたのか気になりました。

2022年11月24日 8:16

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

故人様人間世界のあらゆる価値観を超えて安らかな世界に

故人が成仏なさるためにはあなたの中のあなたのお母さんをあなたの中で成仏させてあげることも大事です。
それはどういうことかといいますと、
あなたが亡くなられたお母さんが「いまはこうなのではないか」「ちゃんとこうしておられるだろうか」と案じられておられる。そのあなた自身の迷いを救う、済度するのです。
それこそ、母の菩提を弔いたいという尊い願い、菩提心です。
その昔、お釈迦様の在世の頃、弟子のアナンダ尊者、目連尊者も亡くなられたお母様の事が気がかりで大変深く悩まれたそうです。(ご検索を)
あなたがもしその不安を払拭されたいと願われるのであれば、あなたの中のお母さん、内なるおかあさんときちんと向き合って、内なる対話、お話、意思疎通を今後もなさることです。供養とはより良い心へ向かうことであり、良いことを共有することであり、亡き方へ最高の精神を送り届ける儀礼であり、心で共鳴しあって生や死を超えて今後もともに心地よいかかわりを続けていくことでもあります。
誰にでも内なる愛する故人様がわが身の中におられます。
その内なる故人様に私たちを安らかな心へと導いてくださるように敬い、お祀りするのが私たち生きている者の亡くなられた方へのつとめなのです。
うやまうこと。
とうとぶこと。
弔いの精神。
お母様が生きて眼の前におられるのであれば、慎まれるべきことは慎むということが故人様への尊厳を尊重することです。
死者にも尊厳があります。
極端な例ですが、以前で亡くなった方のお棺を胴上げしている動画を見たことがあります。周りの方はそれをやりたいと思ってそれをやった、あるいはご遺言でそうしたのかもしれません。あるいは、みんなから慕われた方でしょうから、現場の人たちの心情としてそれをやってあげたいという願いもあったのかもしれません。
ですが、そういうことは「ご遺体ですし」「そういう風な扱いをなさらない方がいい」と思うというのが私個人の心情でした。あるいは最近多くみられる亡くなられた方と写真を撮ることも同じように感じました。
故人の尊厳。
お母様も、既に仏の世界、人間世界のあらゆる良し悪し、損得、好き嫌い、人間の価値観を離れた方の世界に安住されておられる、というのが個人の死の尊厳というものです。生前の人間世界の価値観をもって案じられる事なく、お見守りいただき、導いていただきますよう祈りをお捧げください。

2022年11月24日 10:39
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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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