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本格的にお祈りがしたいです

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真言宗の家でお遍路にも行きだして気がついたのですが、本気で邪念なしに叶えたい願いがあり、本格的なお祈りがしたいことに気がついたことです。心願成就でしょうか。

でもなにからやったらいいのかわかりません。

今私が心願成就のためにやめたいと思ってることは、タバコを吸うことと、時々怒りっぽくなることと、占い師に頼ること、お金を使いすぎることがあるということです。

それをやめたら願いか叶うかというとそうでもないかもしれませんが、これを少しずつでもいいからやめたいことと、一般人が本当に仏様にお祈りするということはどういうことなのか教えていただきたいです。

2022年12月7日 22:21

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教における「祈祷」とは

雨あめさま

仏教における「祈祷」とは、個人的な現世利益、利己的な幸せ等を願うものではなく、一切の衆生の輪廻からの解脱を目的としたものになることが求められるところとなります。

少し難しいですが、心願成就も、利己的、自己中心的な利益というものであれば、趣旨がやや異なるものとなります。

もちろん、絶対にいけないというわけではなく、まあ、大抵の場合は、利己的、自己中心的な利益的なものになってしかるべきなのですが、それに留まらせずに、皆の幸せへと繋げていけるものへとできるかどうかが最終的には問われてくるところとなるのであります。

お遍路の目的も、当初は利己的、自己中心的な利益である場合が多いのではないかとは思います。しかし、回るうちにそういったことが薄れてゆき、少しずつ周りへの感謝や皆のことへと心が向いていくようになり、満願すると、また違った景色が広がることになるのではないだろうかと思うのであります。

発心の道場、修行の道場、菩提の道場、涅槃の道場と、余裕があれば歩き遍路で巡礼されると、よりこのことが理解できていくのではないだろうかと存じます。

合掌

2022年12月9日 8:18
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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

早速ありがとうございます。
利己的な考えからではなく、少ししずつ祈りが自他への幸せの祈りになっていけたらなと思います。

その中でやめたいことも他人に迷惑がかかるからやめようという気持ちになれたらいいですね。

女性なのと初なので家族と車遍路を大分回りましたが、家族が幸せになったらいいな、お遍路している人々の願いが成就したらいいな、お遍路に携わってる方々への感謝、世界各国で祈ってる方々宗教問わず平和に暮らせるよう、残りのお遍路や高野山、そして仏壇で私も祈れたらなと思います。

なんだかポジティブになれました。
ありがとうございました。

「真言宗」問答一覧

愛染明王様のご真言を一般人が唱えて良いか

初めまして。 私は、実家の宗派が浄土真宗ですが、中学校と高校が真言宗の学校であり、真言宗のお寺によくお参りに行っております。 そのような中で、真言宗の僧侶の方がお書きになった本を拝読し、YouTubeを拝読する機会があり、愛染明王様のご真言が書かれておりました。 そこで、自分にとっての良縁が結ばれるようにと、自宅で白い紙にお願い事と自分の名前を書き、その紙を両手で挟んで 愛染明王様に語りかけ、ご真言を毎日何回か唱えております。 すると、私にとって良い意味で不思議な出来事がたくさん起こり始め、なんだか毎日が安定して楽しい未来を想像してワクワクしてまいりました。 しかし、ネットでより深く調べてみると、「ご真言を素人が唱えるのはよくない」「敬愛法は素人が安易に行ってはいけない。代償が起きることがある」と書かれており、少し不安になりました。 そこで私は、「確かに、自分はご利益の内容をきっかけにご真言を唱え始めたので、不純で恐縮だった。」と反省しつつ、 「愛染明王様のおかげさまで日々私は安心して楽しく暮らせるようになったのだから、その感謝と挨拶を、愛染明王様が祀られているお寺に伺ってお伝えしよう」と考えるようになりました。 そしてそのまま愛染明王様との繋がりを信じ、ネットの記事を気にせずご真言をお唱えしているのですが、良いのでしょうか?また、よくお参りする真言宗のお寺とは別に、愛染明王様が祀られているお寺やその他のお参りしたい神社仏閣に複数お参りに行くことは、良くないことなのでしょうか?

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真言宗のお坊様

不躾なお話になりますが、お許しください 私は単身者もうすぐ40になります。 福祉の仕事で、専門職として働いておりました。 10数年勤めておりました。やりがいはもちろんあるのですが、お役所仕事と言いますか、毎日の大人同士の人間関係を大切にしてその日を過ごす。そのような雰囲気があります。 ここ最近は無気力な気持ちに苛む事が多くなりました。これについては私生活における大きな悩みも要因でした。少しメンタルの不調が続いています。 今はまたチャンスを頂き、同業他社で働く予定で仕事開始を控えております。 経済的な事もあり、求人を読み漁ってました。その中でこれがやりたいという気持ちも一切湧かず、前職と比べたら給与も安く肉体労働系の仕事など今より条件が悪くなるものばかりです。 働く事は生活のためであるのだから自分の考えでは甘いと思います。 物事を思い詰めてしまうところがあり、何事も見通しが持てないと不安が強くなる特性もあります。 今までの仕事での充足感や必要とされていた感覚を捨てて、異業種に行く怖さがとても強くあります。 そんな中ここ数年、YouTubeなどでお坊さんの話を聴く機会を多く持ってました。 そして生まれ育った環境の影響もあり、真言宗僧侶に興味関心を持っております。 なぜ興味を持ったのかというのも正直なところ、仏教の先人達の教えを学び、自分の人生をより豊かにしていきたい。というのが大きな理由になります。僧侶になれば自分の精神的な弱さも含めて救われるのではないか?と考えました。人のために役立つ事は苦にならないのですが、反面人付き合いが得意ではありません。人間関係の疲れ、俗世から脱出したいというのもあります。 僧侶といっても宿坊へ就職する感じになります。 お坊様からこのような考えについて何かご意見頂きたかった事。 男性社会であるお寺(宿坊)での実際の業務や修行の話を伺いたく相談いたしました 私の勝手な想像ですが、お寺(宿坊)が僧侶としての道を支援して頂ける。これは一生仕える気持ちでそのお寺に就職という事を相手様も希望している。生半可な気持ちでは来て頂きたくない。というのが本音ではないかと思っております 次の内定が決まった福祉の仕事を長く続ける事が、今自分にとっての最適解と考えてはおりますが、この次はお寺で働きたい。とやはり考えてしまいます 何か方向性を示して頂けましたら幸いです

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真言宗の僧侶になるには

僧侶になる人の心構えを教えてください。 自身を修行の場に身を置き、一切言い訳や弱音を吐けない場所で仏教を学びながら、自分や周りの人生を仏教を学んだうえで豊かにしていけるのでは?と考えてます。 高野山の宿坊では宿業務の傍ら、僧侶になれます。と求人が出ております。 このような場所に身を置いて学ぶ事の想像が出来ませんが、どんな人間でもそれなりの精神的成長は見込めるものでしょうか? 今は都会で暮らしており、少し人生に疲れているところはあります。何事にも中途半端になってしまうところもあります。 ですが、高野山の宿坊を調べてるうちに、ピンキリとあり、結局のところお金が神様と考える資本主義の世の中から断ち切れるか?修行の場にも俗世の欲望や煩悩から切っても切れない場であるのか? 全ては自分次第だとは思いますが、何かアドバイス頂けたらと思います。 真言宗にしたのは高野山含めて昔から馴染みがあります。 あと人との関係性を築くのがあまり得意ではなく、大体独り行動が多くここまで来ました。医療系の仕事で業務の会話のみで成り立つ、女性に囲まれた環境が長かったです。 男性社会の人間関係はどのようなものかも実情を教えて頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ